ぐうたら主婦 きっとの暮らしと遊び

ヘタレな主婦の山歩きとぐうたらな生活の中で思ったことなどを書き連ねてみました。

歴史の道

2015-02-17 06:10:23 | むかしむかし
昨日、「風は山河より」のサンプル版をちょこっと読んでいたら''月ケ谷城''(わちがやじょう)という城が説明図にのっていた。

え?何それ?
初耳ですだ。

急いで調べると姫街道の近くにあったらしい。静岡県から入ってくる街道に接しているではないですか!
静岡県から愛知県の三河地方に抜ける道はいく筋もあったのだろう。特に鳳来寺とか、今はもう跡形もない今水寺とか砥鹿神社とかに向って道が延びていた。
三ケ日から豊川に最短距離で抜ける道もあり、その峠には1000年も前に大きな寺が存在したという礎石や石垣が発掘されている。そしてそこからは本坂経由で石巻方面に抜けたり、直に豊川につながる街道に出たりできた。車でぐるっと回るよりも近いのだ。
あくまでも個人的な考えにすぎないが明治になるまで街道にはあまり大きな変化はなかったと思う。多少土砂崩れなどで迂回するようになったりすることはあっても尾根から尾根伝いに道が延びていた。そしてそれらは大抵古刹や神社を経由しつつ城や集落につながっていたのではないだろうか。

静岡県の井伊谷(いいのや)にある井伊家の菩提寺、龍潭寺から愛知県鳳来町の山吉田にある満光寺(鶏が鳴いて家康に危険を知らせたことで有名なお寺)には山を一つ越せば出ることができるし、三ケ日から別の道で山をこせば宇利城、比丘尼城へでる。
また、さらに進めば野田城とその周辺の城にぶつかる。さらに進めば作手の集落まで行ける。作手の街道は途中から本宮山への道を行けば一山越して岡崎である。道を考え、城を思い浮かべ、由緒ある寺を調べたりしているとなんか、ワクワクしてくる。

実際、ご先祖の戸籍を幕末まで遡った時、静岡県の気賀から(ほぼ井伊谷)愛知県の三河山間部まで嫁に行ったり来りの交流があった。結構県境の交流が盛んだったのではないだろうか。

今夜も妄想でスミマセ~ン^_^

「長養院の歴史」という本

2015-01-30 01:16:13 | むかしむかし
この本、どなたか知りませんか?

数年前、一瞬ネット上で見つけたのですがあっという間に姿を消してしまった。
東栄町下田の長養院の先代が書いたもので、今では寺にも残っていないとか。

この寺の歴史を調べると戦国時代も別の角度からよくわかりそうな気がしていた。
そもそもこの下田地区の名前さえも、昔昔伊豆の下田からこの地にやってきた住職と
一緒にやってきた人々が住んだと言われる。
よって、この土地に代々住む人たちのうーんと大昔のご先祖の過去帳は伊豆の下田の
寺にある、と先代の住職からは聞いていた。先代は非常に熱心に調べている方で
自分が話を聞きにいった時には、いろいろなことを話してくれたが
しまった、記録をとっていなかった。
しかも今から30年近い昔で、まだ本も出されていなかったと思われる。

その後私も結婚したり出産子育てでバタバタしていたら、
おっさまが急死されたと随分たってから聞いた。
「もっとしっかり話を聞いときゃよかった」
と今さらながら思う。
ただ、当時話の中心は伊豆から移住してきたこと、曽我兄弟の墓が寺内にあること
などだったと思う。曽我兄弟については
「どっかで聞いたことあるけど、何だっけ?」(失礼)
程度にしか知識がなかったので、聞き流してしまった部分も多い。

戦国時代については別所城の伊藤氏が武田信玄の家来であったので云々としか
聞けなかった。しかし、伊藤氏が武田方であったということは
武田家の重臣、家臣がこの地を通って落ちのびていくこともできただろう。

しかも一説によれば光圀舜玉和尚は武田信玄の父信虎の兄弟?叔父?
であり、そのような和尚が伊豆からはるばる移ってくるとなれば
武田家からある程度の家人だったり、護衛だったり、家来だったりが一緒に
移ってきても不思議はない気がする。

なんだか無茶苦茶な考えかもしれんけど、今となっては聞きようもない。
現和尚はそういうことはあまり詳しくないようなので残念だ。
新城市にある「風は山河より」に登場する古刹とも深い関係があったようなので
そちらから調べれば何かわかるかもしれない。


もっとしっかり聞いときゃよかった。
本当に残念。

退却コース

2015-01-29 17:42:21 | むかしむかし
むかし話のお師匠さま、と言うと叱られるかもしれない。
が、お師匠さまのブログを読みながら
ちょいちょい頭に浮かぶ疑問について考えていた。


「勝頼公が長篠戦から退却していった時、どのルートを通ったのか?」

ずーっと浮かんでは消え、浮かんでは消えている。
勝頼公の前備えであった望月氏(勝頼のいとこ、北信濃の望月氏へ養子に出た)
は柴田勝家に攻められて落ち延びるのに、東栄町の御園地区から峠を越えて
豊根村に抜け(豊根村役場の裏に延びる旧道は、そのまま信州新野への近道となっている)
信州経由で帰ろうとしたのだろう、と思われる。
伊那高遠は勝頼のかつての居城であり、武田の領地であったこともあるし。
もっとも昔の道はほとんど尾根道ではなかったかと思えば、旧道でさえも遠回りに
なるかもしれない。
しかし、豊根から新野に入ると馬頭観音やお地蔵さまが街道沿いにたくさんあるということは遠い昔から街道であったのではないかと思わせる。


ところで勝頼公は田峯城に立ち寄ったものの拒否され、やむなく武節城(稲武町)で
休憩したあと退却していった、とさまざまなところに書かれているが、

田峯城ー武節城のルートがどうしてもわからない。
今現在ある旧道、新道からはちょっと考えづらい。
武節城からは根羽村に抜ける中馬街道が現在の国道と平行するように走っていて
そのまま行けば無難に帰還できたのかもしれない。

明治生まれの祖母がいつも子供たちを寝かせるとき
「さあ、根羽ねへ行くぞ」
と言っていたことを思い出した。

「根羽ね」=根羽 =「武田信玄終焉の地、とも言われる土地」=「寝場=信玄が寝付いて亡くなった場所」???
(信玄は設楽町田口の福田寺で亡くなったという説もあり)
「根羽ねってなんだ?」
とよく疑問に思っていたが、まだまだ若かった自分はそのままにしてしまった。
大事なことを聞き忘れたと今になって思う。残念なことをした。
最近、というかちょっと前に「はっ、」と。
ひょっとしてそうなんじゃないか、そこから来てるんじゃないだろうかと
思い至ったりして。

そして勝頼公は父信玄の終焉の地を通って落ちのびてったのではなかろうか・・・。

また妄想してしまった。

ただ、武節城からは恵那(美濃)も高遠もどちらも行けるんだなあ。
実際車で走っても実感している。
毎回言うが尾根道を行けば、現在の国道を走るより最短距離で行けそうだ。
何だかまとまりません。

2015-01-28 14:06:20 | むかしむかし
「古戦場は語る 長篠・設楽原の戦い」

が届いた。
Amazon売り切れで出版社に頼んであったのが
朝、すでに届いていた。しかも送料無料でうれしやー。

きょうは年次消化のため休み、ちょっと工作などしようかと朝からホームセンターを
回ってみても、なかなか思うような材料がないためにネットで注文することにして、

本を読んだ。

内容は、わかりやすいです。
ただひとつ、日付がそのまま書かれているので
例えば5月21日と言えば(旧暦の7月20日頃)と書いていただいた方が
状況がもっとわかりやすくなるのではないかと思いました。
7月20日頃、と言えば梅雨が明けて暑くなり、
しかも地面はぬかるんでいたかもしれません。
現在設楽原は「かつて湿地であった」説が有力らしいですが
そうではなく、梅雨あけとともに戦いが始まったとすれば
まさに湿地状態であったでしょう、と個人的には思うのであります。

この本を読むと長篠城史跡保存館が発行している、
丸山館長さんがお書きになった戦史史料の数々をもう一度読み直したくなりました。
館長さんがそれらの史料をまとめられた時代は、まだまだ言い伝えが詳しく残っていた
時代でもあり、土地の古老に生々しいお話を聞かれることもあったであろうと
思われるからです。
言い伝え、というのは案外事実を伝えていることが多いのではなかろうかと
わたしは思っておりますが、(しかし、もうそれは不可能に近いので)
今後は残された書状などから専門家の方々によって検証されてほしいと思います。


しかし、奥三河の名家熊谷家の当主による日記「熊谷家伝書」には
長篠合戦についてどのように書かれているのか、そちらも興味深いです。
数年前に出版されたときに「欲しい!」と思ったのですが
予算がなく、また自分自身も余裕がなかったために月日が過ぎてしまいました。
後悔しきりです。
図書館で探してみようかとも・・・・。

亀山城

2014-10-28 17:43:03 | むかしむかし
きょうは年次消化のお休み。
大御所H女の送別会の写真を整理して焼いて来ねば、と思いつつ
枚数を数えていたら眠くなった。(失礼!)

気分転換にTVをみようと新聞のテレビ欄を見ていたら地元テレビ局の番組で東海道を歩き
”亀山城へ”
とあったのでこれは見なくちゃ、とワクワクしながら見ていた。
「なんか風景が見たことないわー・・・」
「こんな店あったっけ?え?こんなに都会だっけ?」


三重県の亀山城だった・・・

普通はそうおもうだろっ!

と突っ込まれるかもしれないが
全く頭になかった。(亀山市のかた、ごめんなさい)


亀山城と言えば新城市作手(旧作手村)だと思ってしまった。
まあ、作手は東海道に沿ってないんだけどね。(よく考えればわかることだって!)
紅葉が里に降りてきたら、また作手へ出掛けよう。
亀山城、古宮城、川尻城を巡ろう。

そういえば、11月9日は設楽原歴史資料館で何かのミニ講座があった気がする。
とりあえず行ってみるつもり。