自分も中年をすぎていつコロッといくかわからないので、
知っていること感じたことを書いておこうと考えた。
”シャガミサマ”というのは言葉の言われは不明だが、昭和の終わり頃まで
ある土地に言い伝えられた話とともに土地の人々が代々供養し続けてきた
ある墓のはなしである。
長篠戦で勝頼の前備えをしていた望月右近(義勝)が勝頼ともども柴田勝家に攻められ
敗走する途中(勝頼とは別行動だったらしい)に三河の山奥御園集落に一夜の宿を頼んだのが、刀の柄で豆の皮を剥くのを見ていた民家の住人に「さぞや身分の高いお方に違いない」
と感づかれ騙し討ちにあった。
望月右近は「騙し討ちにあったのは悔しいが、せめて信州の風が吹くところへ亡骸を葬ってほしい。」
と言い残して死んだ。
そこで村人は信州の風が吹く、夏でも寒いくらいの峠に彼を葬った。
そこが現在望月峠として残っており、代々供養されてきた墓も現存する。
今は山も切り開かれてすっかり明るくなり、道もわかりやすくなっているようだが
私が初めて叔母に案内されて訪ねた時は昼でも薄暗い熊笹の一面生い茂る中に
四角い石がぽつんとひとつあっただけでした。
そして、シャガミサマというのは、長篠戦のあと冬の寒い雪が降る時期に
ある身分の高そうな女性が幼い女の子を連れて「これこれこういう容姿の侍を見なかったか」と尋ねてきたそうだ。聞かれた家の者は皆「知らない」
と答えたため、彼女は仕方なく雪の中を去って行ったのだが
途中で息絶えていた。
不憫に思った村人たちがその街道筋に葬り、代々”シャガミサマ”と呼んでおまつりをしてきた。望月峠からは少し離れた昔からの細い山道沿いにそれはあります。
今では集落自体が消えてしまっているし、シャガミサマの話は町史にも載っていないようなので忘れ去られているのかもしれない。
私は40数年前,代々庄屋をしていたという、その土地の古老に話を聞いた。
そして、望月氏が敗走していった道は長野へ最短距離で抜けれる街道だった。
現在は車道が作られているので昔の街道は廃道になってしまっているようだが
昭和の始めまでは使われていたらしい。もうすこし行けば熊谷家のある豊根村に出、
そこから山を越えればすぐに長野県である。
遠い昔の話ではあるけれども、現在ともしっかりと繋がっていることを
長篠の古戦場や作手、稲武、売木村、根羽村、津具村などを走ると感じるのは相当ヘンか?
知っていること感じたことを書いておこうと考えた。
”シャガミサマ”というのは言葉の言われは不明だが、昭和の終わり頃まで
ある土地に言い伝えられた話とともに土地の人々が代々供養し続けてきた
ある墓のはなしである。
長篠戦で勝頼の前備えをしていた望月右近(義勝)が勝頼ともども柴田勝家に攻められ
敗走する途中(勝頼とは別行動だったらしい)に三河の山奥御園集落に一夜の宿を頼んだのが、刀の柄で豆の皮を剥くのを見ていた民家の住人に「さぞや身分の高いお方に違いない」
と感づかれ騙し討ちにあった。
望月右近は「騙し討ちにあったのは悔しいが、せめて信州の風が吹くところへ亡骸を葬ってほしい。」
と言い残して死んだ。
そこで村人は信州の風が吹く、夏でも寒いくらいの峠に彼を葬った。
そこが現在望月峠として残っており、代々供養されてきた墓も現存する。
今は山も切り開かれてすっかり明るくなり、道もわかりやすくなっているようだが
私が初めて叔母に案内されて訪ねた時は昼でも薄暗い熊笹の一面生い茂る中に
四角い石がぽつんとひとつあっただけでした。
そして、シャガミサマというのは、長篠戦のあと冬の寒い雪が降る時期に
ある身分の高そうな女性が幼い女の子を連れて「これこれこういう容姿の侍を見なかったか」と尋ねてきたそうだ。聞かれた家の者は皆「知らない」
と答えたため、彼女は仕方なく雪の中を去って行ったのだが
途中で息絶えていた。
不憫に思った村人たちがその街道筋に葬り、代々”シャガミサマ”と呼んでおまつりをしてきた。望月峠からは少し離れた昔からの細い山道沿いにそれはあります。
今では集落自体が消えてしまっているし、シャガミサマの話は町史にも載っていないようなので忘れ去られているのかもしれない。
私は40数年前,代々庄屋をしていたという、その土地の古老に話を聞いた。
そして、望月氏が敗走していった道は長野へ最短距離で抜けれる街道だった。
現在は車道が作られているので昔の街道は廃道になってしまっているようだが
昭和の始めまでは使われていたらしい。もうすこし行けば熊谷家のある豊根村に出、
そこから山を越えればすぐに長野県である。
遠い昔の話ではあるけれども、現在ともしっかりと繋がっていることを
長篠の古戦場や作手、稲武、売木村、根羽村、津具村などを走ると感じるのは相当ヘンか?