ぐうたら主婦 きっとの暮らしと遊び

ヘタレな主婦の山歩きとぐうたらな生活の中で思ったことなどを書き連ねてみました。

シャガミサマ

2014-08-31 20:24:37 | むかしむかし
自分も中年をすぎていつコロッといくかわからないので、
知っていること感じたことを書いておこうと考えた。

”シャガミサマ”というのは言葉の言われは不明だが、昭和の終わり頃まで
ある土地に言い伝えられた話とともに土地の人々が代々供養し続けてきた
ある墓のはなしである。
長篠戦で勝頼の前備えをしていた望月右近(義勝)が勝頼ともども柴田勝家に攻められ
敗走する途中(勝頼とは別行動だったらしい)に三河の山奥御園集落に一夜の宿を頼んだのが、刀の柄で豆の皮を剥くのを見ていた民家の住人に「さぞや身分の高いお方に違いない」
と感づかれ騙し討ちにあった。
望月右近は「騙し討ちにあったのは悔しいが、せめて信州の風が吹くところへ亡骸を葬ってほしい。」
と言い残して死んだ。
そこで村人は信州の風が吹く、夏でも寒いくらいの峠に彼を葬った。
そこが現在望月峠として残っており、代々供養されてきた墓も現存する。
今は山も切り開かれてすっかり明るくなり、道もわかりやすくなっているようだが
私が初めて叔母に案内されて訪ねた時は昼でも薄暗い熊笹の一面生い茂る中に
四角い石がぽつんとひとつあっただけでした。

そして、シャガミサマというのは、長篠戦のあと冬の寒い雪が降る時期に
ある身分の高そうな女性が幼い女の子を連れて「これこれこういう容姿の侍を見なかったか」と尋ねてきたそうだ。聞かれた家の者は皆「知らない」
と答えたため、彼女は仕方なく雪の中を去って行ったのだが
途中で息絶えていた。
不憫に思った村人たちがその街道筋に葬り、代々”シャガミサマ”と呼んでおまつりをしてきた。望月峠からは少し離れた昔からの細い山道沿いにそれはあります。
今では集落自体が消えてしまっているし、シャガミサマの話は町史にも載っていないようなので忘れ去られているのかもしれない。

私は40数年前,代々庄屋をしていたという、その土地の古老に話を聞いた。
そして、望月氏が敗走していった道は長野へ最短距離で抜けれる街道だった。
現在は車道が作られているので昔の街道は廃道になってしまっているようだが
昭和の始めまでは使われていたらしい。もうすこし行けば熊谷家のある豊根村に出、
そこから山を越えればすぐに長野県である。
遠い昔の話ではあるけれども、現在ともしっかりと繋がっていることを
長篠の古戦場や作手、稲武、売木村、根羽村、津具村などを走ると感じるのは相当ヘンか?

ちょっとドキッ!

2014-07-14 17:33:44 | むかしむかし
今朝、ミーティングで人事の話があった。

今の工場長が本社へ、代わりに某事業所からやって来る工場長の名前を聞いて
おのろいた。
普通の人は「へえぇー、変わった名前ねー。」
で終わるのだが、あたしにとってはなじみ深い名前。

”初鹿野さん”
武田家家臣、初鹿野伝右衛門は武田オタクにとっては二十四将につぐ胸キュンなお名前ではないか。
新しい工場長が現場に顔をお出しになったら失礼を承知で聞いてみようと思う。
そして、「歴史に興味がおありなら、ここから車で40分も走れば長篠の古戦場ですから、
どうぞご覧になってくださいねー。」
とかなんとか。
気さくな工場長だったらいいのになあ。
今の工場長は挨拶もできないような人だけど、本社に栄転らしいから
「部下に挨拶もできんでも、黙ってりゃ本社行きだなんて、
ここの出世法則ってワケワカランよねー。挨拶できなくても出世できるんだもんねー。」
「要するに、黙って何も言わないのがいいのかもしれんねー。」
この2ー3年、工場長と挨拶も含めてしゃべったのは数えるほどしかない。

赴任は8月1日だけども、(あ、その日はAEDの講習会であたしは休みだった)
なんだか少し楽しみな感じ・・・・。

設楽原は湿地か?

2014-07-01 06:18:03 | むかしむかし
長篠の戦いで有名な設楽原は今は「かつて湿地帯であった」説が当たり前になっている。

しかし、わたしにはどうしてもそうは思えない。
まあ、しろうとの根拠のない考えだけども、作家の新田次郎氏も現地を取材し
当時長篠戦の資料を編纂していた長篠城史跡保存館の館長丸山氏の説明もうけている。
「採草地」
ではなかったのかと、私も思う。
その理由は、第一に湿地ならば”沼”とか”湿原”に関係する言葉が地名に残っている筈で
”設楽原”とはいわないのではないか。
自分の地元でも明治まで広大な原っぱが広がっていた地域は
(処刑場があったということは別として)今でも住所とは別に○○原とか○○原台地とか
地図に載っている。明治から大平洋戦争が終わるまで陸軍の演習場となっていた。
第二に、丸山館長が調査を始めた頃はまだ当時の面影や地形が残っていたと思うから。
現実に写真などを見ると明治の初めまでは日本全国の田舎の風景や地形、風俗などは
ほとんど江戸時代から変わっていないと思われる。

風景が極端に変わり始めたのは明治の終わり頃と
戦後ではないかと思っている。(あくまでも思い込み)

「地質調査の結果」と言われるかもしれないが
やはり採草地としか思えない。
また地元に伝わる口伝も侮れないものがあり、意外と知られていないこともある。
勝頼の本陣が誰の軍に攻められたかなんて、どの歴史書にも載ってない。
でも、勝頼の前備えをしていた武将が落ち延びて行くときに通っていった土地の古老から
私は直接聞いている。そういう土地の方々はつい最近まで落武者たちの墓を古の街道筋に点々とあることを知っていたし、供養していたし、その時代(戦国時代)の街道を生活の道にもしていた。

この40年ほどでそれらも草や木に覆われ、すっかりわからなくなってしまったけれども
それまでの人たちには昔々からの言い伝えが生々しく生きていたと思う。

だから「採草地」であったと思っている。


興味のない方にはどーでもいいお話でした。