「長崎にあった「幻の原爆ドーム」は、なぜ撤去されてしまったのか?」
というカトリック信徒に対して侮辱的内容の記事に、
当方(潜伏キリシタンの末裔)は激昂する。
あたかも、カトリック教会が米国の札束に屈したかの如き。
「籏智広太」 (はたちこうた Kota HatachiMymeyou @togemaru_k)の誤りの根底は、
代替地への再建案もあったが、教会側も禁教時代(隠れキリシタンの時代)からの由緒ある土地であることなどを理由に現地再建を求めていた(先出、沿革史より)。
という記述。
これ、言及が明らかに浅い。
あの土地は、信徒を弾圧していた庄屋の屋敷跡地。
長崎原爆投下から間もない時期に於いて、
禁教時代の数百年は未だ生々しかった。
特に、浦上四番崩れの生き残りやその近親者がまだ、生きていた時期です。
浦上四番崩れの生き残りたちが、あの土地を選びました。
原爆よりも、禁教の方が遥かに重要です。
そもそも、教会の焼失は、時々起きる事です(最近の例では、2007年の
江袋教会。原因は漏電)。
漢字では「籏智広太」と書きます / 朝日新聞→ BuzzFeed Japan記者(@BFJNews
)/ ファクトチェック、ヘイトスピーチ
ファクトチェックを疎かにし、
カトリック信徒へのヘイトスピーチに勤しむ
はたちこうた Kota Hatachi
恥を知れ!
追記。
浦上四番崩れについては
長崎大司教区HPの
が詳しい。
その後、
迫害後のひどい困窮の中で、信徒たちが先ずやろうとしたことは、「神の家」の建設であった。1876年(明治9)たまたま売りに出された、かつての浦上の庄屋屋敷を買い取った。現在の浦上天主堂の場所である。ここは村の中央の丘で位置もよく、250年間信仰の取り締まりの場所であったので、迫害の償いの祈りの場所としても最も適していたのである。しかし、信徒たちの経済力は買い取るだけで精一杯であった。庄屋役宅を仮聖堂としてその後30年間、生活費の一部を献金し続け、労働奉仕を捧げて、骨を刻むような苦労の末、1929年(昭和4)に当時東洋一とも称された壮大な赤煉瓦造りの大聖堂が完成したのである。
補足すると、現代でも聖堂や附属建物を建てるため、年単位で信徒たちが建設資金を積み立てます。
また、潜伏キリシタン・カトリック信徒、特に、浦上信徒に対するヘイトスピーチの潮流は、
「はたちこうた」以前から存在します。
その一端は、
「 原爆は人に何をもたらしたのか : 地理的関係からナガサキを解釈する」(森 顕登)
にて垣間見えます。
そして、
「 原爆は人に何をもたらしたのか : 地理的関係からナガサキを解釈する」(森 顕登)
の注釈14、
片岡千鶴子学長の評、
「絶望する信徒に対して、信仰に基づいて浦上の再建に立ち上がろうと呼び掛けた。励ましの言葉にほかならない」
は、
反核一辺倒な連中への御灸。
原爆よりも、禁教、そして、信仰の方が遥かに重要です。
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