私のものらしい名前は一文字最後がなぜか、”棄”という漢字に替わっていて間違っている・・・。
理由が分からず、もどかしい想いをしたまま、目が覚めた。
これまで、一般の人に評価されるべきことは何もないまま、ひたすら自分の向上のことばかり考えて生きてきていることを残念に思うと同時に、このまま死んだとして、これは何だったのだろう? 今生きている時しか自分にとって意味がないのなら、どう生きたらいいのだろう?昨夜は寝床でそのようなことを考えながら就寝したところだった・・・
私の記録や記憶が子孫に残ることで何か意味がでるかどうか?
そんなことは殆ど分からない。
考えようによっては、文明世界は50年後には終わっているかもしれない。
もっと前向きにだけ考えれば良いか・・・いや、
ポジティブに考えるだけが、人間らしいとは限らない。
さて、
中学生の頃は貧乏な人に目立つもののない世界の小さい悪ガキだっただけだ。
高校になっても、殆ど成長しなかったな・・・より家は苦しくなっていたが、
自分のことで頭はいっぱいだったが、なにも達成できずただだらだら生きていたな・・・
そういえば、今頃は高校受験生の冬も過ごした。
虫や草は食べてこそなかったが、
大阪の工場を退場して、雪国に越し、
小柄な体で長距離トラック輸送をしている父と専業主婦の母と、
5人の子供達は、かなり生活苦のなかで生きていた。
暖房がコタツだけで、手がしびれてシャーペンをもった勉強ができない日々もあった。それで、結局はそのままコタツで寝てしまうだけの日々・・・。
高校では野球をすることしか頭になくなっていた時期だ。
妹達はどう感じ、どう生きていたか、当時の私の感性では、把握できなかった。
小学校低学年や幼稚園児ではまだ殆ど自己主張などしないし・・・何を思っているか言葉にしてくれるような子たちではなかった・・・
ホント、自分の小さな世界のことで頭はいっぱいだった・・・
今現在も次元的に見て大して変わっていないのかもしれない。
何をうまくできるのだろう?
初めて行った大学(普通一度きりなものだが)では、バイトもろくにせず、
仕送りもなく、奨学金だけで、車の免許も取らず、TVもない生活で、ひたすら
ドラムを練習していた・・・、歯医者にも行かず、虫歯はどんどん悪くなった。
中途入社したメモリ設計の会社では研修期間中に肺がんで父を失い、その後、家計を支えながら、NOVAで英会話を勉強したり、会社の仲間とのバンド活動の為のドラムの練習。どうにか研修期間終了後即、会社の近くの教習所で免許は取った。
トラックのプロだった父はこんな風に車を動かしていたのか・・・と、感慨深かったものだ。
その免許も、6年後二回目の更新に行かず、無くなった。
新聞奨学生として、駒場の教養部に通学しているときに、
お金も無く、時間も無く、デートすらできず、
当然、免許などどうでもよくなっていた。
移動手段は新聞屋の配達用自転車だった時だ。
せっかく池ノ上という、大学までその自転車で5分のところに
新聞店を移動させていただいたのに、
3年の実験授業を受けたかった第一志望の化学科ではなく、
なぜか、第二志望の物理学科に進学することになってしまった。
その年の冬は吉祥寺駅前の店で仕事をしていたが、
東京は歴史的な大雪を被った・・・・自転車での300部を越える配達が9時ころまでかかり、体力も限界、英語の試験にもいけなかったため、その必修の英語の点数が0点近くで進学振り分けに加算され、平均点を落としたことも要因の一つだが、
勉強不足で数学の点が足りなかったことも大きいだろう。
夕刊の為3時過ぎには戻らなくてはならず、
フランス語は半分も出席できず、Dを二つ。翌年時間をずらした他クラで取り直した。(クラスのシケ長に選ばれていたので、クラスをフラ語の午前にあるクラスに変えてくれとお願いしたかったが、軟弱な私はそれができなかった)
また、有機化学の授業も同様。
シケタイでもらったノートのコピーを参考に、マクマリーの有機化学(太い二分冊)を買って、結構真面目に読んだが、90%くらいできたと思った試験では、
C判定だった。
一番後ろの席で受けてしまったので、もしかしたら、名簿順でないと減点されるのか?
熱力学も同じことをして、Dになってしまったので、他クラでBをもらいなおした。
これらは、周りが殆ど満点ばかりだったというのもあるとも考えられる・・・。
どうにか第二志望に進学できたのは明らかに、池ノ上の店に移動できていたからだ。
何と効率の悪い大学生活の送り方か・・・
半年たった物理学科での成績でも可や良が出てしまったので、
休学して貯金してから復学しようと思い、店をでて、派遣会社に契約社員で雇ってもらった。
・3:00前後店の前で朝刊が届き準備する
・3:30~4:00までに出発
・10区の本郷X丁目付近、11区の池之端付近の順で時間がかかり、
とくに13区は坂の多い根津から東大農学部まで大きく回り、最もハード。これらを毎朝代配。この区域のH君は同じ石川県出身で、足腰が強く、脅威のスピードで配達していたが、私の後すぐ店を出たらしい。
・3:00~4:00に夕刊をとって配達。
休みは水と木の夕刊のみ(水は物理学実験が夜まで続き、木は物理学演習で黒板の前で自分の答案発表などがあるので、週一日の休みを夕刊二回にしてもらった。)
朝刊は月曜の新聞の日以外毎朝配達した。
・毎月10区の集金(20初集、10〆)
・月曜日8:00~10:00店で電話当番
・日曜日午前中は折込当番
この年に取れなかった単位が多く、卒業時はぎりぎり必要単位+2単位だった・・・これはその道の専門のプロでも難しいでしょう。
一番下の弟が地元で職が無くなって、
同じアパートに呼んで暮らしたが結局失敗。
貯金もできなかったまま、早く卒業してしまおうと思い、復学。
今度は大学の掃除のバイトや家庭教師をしながら、豊島寮で暮らし始めたが、
夏の暑さに耐えられなくなっていた。
(あそこは、官民共営の受刑者収容所より環境が悪かったぞ)
そこで、本郷の正門の斜め前の新聞店(今は、別の新聞店に売り払われているようだ)で、代配で奨学生として雇ってもらった。
足腰と精神力の限界で半年で根を上げた。
4年生では、月島の店をanで発見し、一年の契約で奨学生として再採用してもらった。
しかしこれも、9月12日と、12月中旬に、同じ店の学生から覚えの全く無い暴行をうけ肋骨を痛め、クリスマス前に豊島寮に戻った。
約9ヶ月で退会したため、奨学金は一銭も入らず。
(それでも、あの店が時間給が最高だったので相対的には結果的に他と同等だと考えた)
自分で再就職先を探すことにし、化学系も選択肢にしていたので、
なかなか決まらず、暖かくかつ寒い春を過ごした。
これらすべて、夕べ見た変な夢のようなものだ・・・
数学力。
数理科学的判断力。
これらを強化してもっと計画力を身につけないと。
「無償の秩序」
そんなものがこの世に見つけられるのなら、あらかじめ知りたいものである・・・
理由が分からず、もどかしい想いをしたまま、目が覚めた。
これまで、一般の人に評価されるべきことは何もないまま、ひたすら自分の向上のことばかり考えて生きてきていることを残念に思うと同時に、このまま死んだとして、これは何だったのだろう? 今生きている時しか自分にとって意味がないのなら、どう生きたらいいのだろう?昨夜は寝床でそのようなことを考えながら就寝したところだった・・・
私の記録や記憶が子孫に残ることで何か意味がでるかどうか?
そんなことは殆ど分からない。
考えようによっては、文明世界は50年後には終わっているかもしれない。
もっと前向きにだけ考えれば良いか・・・いや、
ポジティブに考えるだけが、人間らしいとは限らない。
さて、
中学生の頃は貧乏な人に目立つもののない世界の小さい悪ガキだっただけだ。
高校になっても、殆ど成長しなかったな・・・より家は苦しくなっていたが、
自分のことで頭はいっぱいだったが、なにも達成できずただだらだら生きていたな・・・
そういえば、今頃は高校受験生の冬も過ごした。
虫や草は食べてこそなかったが、
大阪の工場を退場して、雪国に越し、
小柄な体で長距離トラック輸送をしている父と専業主婦の母と、
5人の子供達は、かなり生活苦のなかで生きていた。
暖房がコタツだけで、手がしびれてシャーペンをもった勉強ができない日々もあった。それで、結局はそのままコタツで寝てしまうだけの日々・・・。
高校では野球をすることしか頭になくなっていた時期だ。
妹達はどう感じ、どう生きていたか、当時の私の感性では、把握できなかった。
小学校低学年や幼稚園児ではまだ殆ど自己主張などしないし・・・何を思っているか言葉にしてくれるような子たちではなかった・・・
ホント、自分の小さな世界のことで頭はいっぱいだった・・・
今現在も次元的に見て大して変わっていないのかもしれない。
何をうまくできるのだろう?
初めて行った大学(普通一度きりなものだが)では、バイトもろくにせず、
仕送りもなく、奨学金だけで、車の免許も取らず、TVもない生活で、ひたすら
ドラムを練習していた・・・、歯医者にも行かず、虫歯はどんどん悪くなった。
中途入社したメモリ設計の会社では研修期間中に肺がんで父を失い、その後、家計を支えながら、NOVAで英会話を勉強したり、会社の仲間とのバンド活動の為のドラムの練習。どうにか研修期間終了後即、会社の近くの教習所で免許は取った。
トラックのプロだった父はこんな風に車を動かしていたのか・・・と、感慨深かったものだ。
その免許も、6年後二回目の更新に行かず、無くなった。
新聞奨学生として、駒場の教養部に通学しているときに、
お金も無く、時間も無く、デートすらできず、
当然、免許などどうでもよくなっていた。
移動手段は新聞屋の配達用自転車だった時だ。
せっかく池ノ上という、大学までその自転車で5分のところに
新聞店を移動させていただいたのに、
3年の実験授業を受けたかった第一志望の化学科ではなく、
なぜか、第二志望の物理学科に進学することになってしまった。
その年の冬は吉祥寺駅前の店で仕事をしていたが、
東京は歴史的な大雪を被った・・・・自転車での300部を越える配達が9時ころまでかかり、体力も限界、英語の試験にもいけなかったため、その必修の英語の点数が0点近くで進学振り分けに加算され、平均点を落としたことも要因の一つだが、
勉強不足で数学の点が足りなかったことも大きいだろう。
夕刊の為3時過ぎには戻らなくてはならず、
フランス語は半分も出席できず、Dを二つ。翌年時間をずらした他クラで取り直した。(クラスのシケ長に選ばれていたので、クラスをフラ語の午前にあるクラスに変えてくれとお願いしたかったが、軟弱な私はそれができなかった)
また、有機化学の授業も同様。
シケタイでもらったノートのコピーを参考に、マクマリーの有機化学(太い二分冊)を買って、結構真面目に読んだが、90%くらいできたと思った試験では、
C判定だった。
一番後ろの席で受けてしまったので、もしかしたら、名簿順でないと減点されるのか?
熱力学も同じことをして、Dになってしまったので、他クラでBをもらいなおした。
これらは、周りが殆ど満点ばかりだったというのもあるとも考えられる・・・。
どうにか第二志望に進学できたのは明らかに、池ノ上の店に移動できていたからだ。
何と効率の悪い大学生活の送り方か・・・
半年たった物理学科での成績でも可や良が出てしまったので、
休学して貯金してから復学しようと思い、店をでて、派遣会社に契約社員で雇ってもらった。
・3:00前後店の前で朝刊が届き準備する
・3:30~4:00までに出発
・10区の本郷X丁目付近、11区の池之端付近の順で時間がかかり、
とくに13区は坂の多い根津から東大農学部まで大きく回り、最もハード。これらを毎朝代配。この区域のH君は同じ石川県出身で、足腰が強く、脅威のスピードで配達していたが、私の後すぐ店を出たらしい。
・3:00~4:00に夕刊をとって配達。
休みは水と木の夕刊のみ(水は物理学実験が夜まで続き、木は物理学演習で黒板の前で自分の答案発表などがあるので、週一日の休みを夕刊二回にしてもらった。)
朝刊は月曜の新聞の日以外毎朝配達した。
・毎月10区の集金(20初集、10〆)
・月曜日8:00~10:00店で電話当番
・日曜日午前中は折込当番
この年に取れなかった単位が多く、卒業時はぎりぎり必要単位+2単位だった・・・これはその道の専門のプロでも難しいでしょう。
一番下の弟が地元で職が無くなって、
同じアパートに呼んで暮らしたが結局失敗。
貯金もできなかったまま、早く卒業してしまおうと思い、復学。
今度は大学の掃除のバイトや家庭教師をしながら、豊島寮で暮らし始めたが、
夏の暑さに耐えられなくなっていた。
(あそこは、官民共営の受刑者収容所より環境が悪かったぞ)
そこで、本郷の正門の斜め前の新聞店(今は、別の新聞店に売り払われているようだ)で、代配で奨学生として雇ってもらった。
足腰と精神力の限界で半年で根を上げた。
4年生では、月島の店をanで発見し、一年の契約で奨学生として再採用してもらった。
しかしこれも、9月12日と、12月中旬に、同じ店の学生から覚えの全く無い暴行をうけ肋骨を痛め、クリスマス前に豊島寮に戻った。
約9ヶ月で退会したため、奨学金は一銭も入らず。
(それでも、あの店が時間給が最高だったので相対的には結果的に他と同等だと考えた)
自分で再就職先を探すことにし、化学系も選択肢にしていたので、
なかなか決まらず、暖かくかつ寒い春を過ごした。
これらすべて、夕べ見た変な夢のようなものだ・・・
数学力。
数理科学的判断力。
これらを強化してもっと計画力を身につけないと。
「無償の秩序」
そんなものがこの世に見つけられるのなら、あらかじめ知りたいものである・・・