女性にできないことはあるか?

2008-05-12 | 自然科学
====以下 ウィキペディア の記事より抜粋==============

米国時代
1936年、呉は太倉出身の化学者だった友人の董若芬とともに渡米した。呉はカリフォルニア大学バークレー校で研究を行い、1940年に博士号を取得した。2年後、彼女は同じ物理学者の袁家騮(袁世凱の孫)と結婚した。二人の間には息子の袁緯承(英語名 Vincent Yuan)が生まれ、やはり物理学者となっている。後に一家はアメリカ東海岸に移り、呉はスミスカレッジやプリンストン大学(1942年~1944年)、コロンビア大学(1944年~1980年)で教鞭をとった。コロンビアでは、当初、上級研究員としてマンハッタン計画に参加した。

彼女は1956年、同僚の李政道が楊振寧とともに構築していたパリティに関する法則をベータ崩壊の観測によって検証できる方法を李に提案し、彼の研究を個人的に助けた。この実験は実際に成功した。彼女のこの貢献は李たちの理論の確立にとって非常に有益だったと考える者もいるが、この研究によって李と楊が受賞したノーベル賞で呉は受賞の対象とならなかった。この事実はノーベル賞選考委員会の性差別主義によるものとして広く非難された。呉の著書 Beta Decay(1965年)は現在でも原子核物理学の標準的な参考書となっている。

彼女は後に、鎌状赤血球症の原因となるヘモグロビンの変形の際の分子変化の研究などへと研究分野を広げていった。

呉は様々な場面で女性研究者としての先例を作る立場となった。以下に例を挙げる。

プリンストン大学物理学科で最初の女性教官である。
プリンストン大学の名誉博士号を授与された最初の女性である。
 コロンビア大学の初代Pupin Professor Of Physics就任(1973年)
アメリカ物理学会で最初の女性の会長である(1975年)。
呉は1975年にアメリカの国家科学賞 (National Medal of Science) を、また1978年には最初のウルフ賞物理学賞を受賞した。

1997年に呉が没すると、コロンビア大学は彼女にプーピン物理学名誉教授職を授与した。


[編集] 回顧
1986年、南京大学より、名誉博士号を授与された。1990年、中国科学アカデミーは彼女を記念して、2752番小惑星を Wu Chien-Shiung と命名した。1995年には4人の中国/台湾人ノーベル賞受賞者である李政道、楊振寧、サミュエル・ティン、李遠哲が、意欲的な若い研究者に奨学金を与える目的で台湾に呉健雄学術基金会 (the Wu Chien-Shiung Education Foundation) を設立した。

呉は上記の財団設立の2年後の1997年、アメリカのニューヨーク州マンハッタンで脳梗塞により84歳で没した。彼女の遺灰は、出身校である明徳女子学校の後継校である明徳高等学校に埋葬された。2003年2月に没した夫の袁家騮も、本人の希望によって彼女の隣に埋葬された。彼女の墓石には、呉の墓碑銘が李政道と楊振寧の、また袁の墓碑銘がサミュエル・ティンと李遠哲の書によって刻まれている。

2002年6月1日には呉の銅像が明徳高校に建てられた。

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私達、普通の高校の普通科でぶらぶらしていた、普通のおっさんが、
優秀な高校の理数科でがんばった人たちにくらべ、
優秀なタレントとして芸能界で生き残っているDNAをもつ人たちにくらべ、
女性から差別されたり、軽視されたりするのはストレスにならないと言い切れないが、

それに比べ、優秀な女性が社会的に差別されるのはもっと大きなストレスなのは間違いない。

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