金子兜太さんを悼む 黒田杏子
我が道貫き平和詠む
2018/2/23付 日本経済新聞 朝刊
世界一生きてよ兜太(とうた)春立ちぬ 沼津 岩城英雄
二〇一六年三月二十日、日経俳壇巻頭に頂いた作品。
「その根幹に反戦と前衛性を持ちつつ、
指導者として決まりにこだわらない詠み方も許容、
幅広い年齢層に俳句を定着させた」兜太さんへの一句と私は選評した。
かなり以前の日経俳壇にも、こんな一句。
薫風や世紀を越えて兜太働く 川崎 渡辺蝶遊
電話すると、即座に
「日銀時代の先輩だ。たしかオレより三歳ほど年上の」と答えがあった。
記憶力に圧倒された。
□ □
私は金子兜太門ではない。生涯の師は山口青邨。
東京女子大学入学と同時に入門した。
二十代の終わりに師に「金子兜太という俳人をどう思われますか」と質問した。
「あの人はあの人の道を行けばよい。彼はそれができる人だと思います」
以来、私は金子兜太の人生と世界を探究してきた。
「ウマが合った」のか、偉ぶるところ微塵(みじん)もない俳人と五十年、
公開選句会や「BS俳句王国」への出演でご一緒した。
何冊もの本をプロデュースすることができた。
愉(たの)しくたっぷりと行動を共にしてきた。
その昔、兜太さんはくり返した。
「クロモモさんよ、金子兜太を支えたのは、
トラック島での戦場体験、日銀でのヒヤメシ、
俳壇の保守返り、この三つだ。覚えておいてくれよな」
八十代半ば以降、この言葉を聞くことはなくなった。
万事にこだわるところのない「存在者」になられたのだと思う。
二〇一五年四月、北陸新幹線開通を記念したNHK学園金沢市俳句大会。
私を聞き手に、兜太さん、きっぱりと。
「私の人生、やれることはたかが知れています。
トラック島での戦場体験を具体的に事実に即して分かりやすく皆さんに話してゆきたい。
戦争がいかに悲惨なものか。
人間にとって、平和以上の幸福はないのだということを語り継いでゆきます」
そのとき、こうも。
「一人で一時間はしんどい。あんたが聞き手なら安心だ。
クロモモさんよ、呼ばれたら二人でどんどん出かけて行って、
対話講演を重ねてゆこうじゃないか。
オレはいま、そのことをやれるし、やっておきたい」
この年の六月、澤地久枝さんの求めに応じ、
揮毫(きごう)した「アベ政治を許さない」の文字が安保法制反対集会の旗印となり、
この列島の津々浦々に兜太の墨跡と筆勢が浸透していく。
各地で「戦場体験語り部」とそのお助けおばさんのコンビが共感と支持を広げていった。
日を追って兜太さんの語りは深化と進化をとげたが、こうも述べていた。
「クロモモさんよ、語り継ぐって、こりゃ簡単じゃねえぜ。
予想した以上に大変な仕事だわ。聴き手が真剣だしナ。
しかし、オレはやるよ。やめない。二人で最後までやってやろうじゃないか」
□ □
東京帝国大学経済学部卒業後、日本銀行に入行。
トラック諸島に海軍主計中尉として赴任し、辛くも生きて帰国。
二十七歳で復職した日が特別な日だった。
労働運動の高まりを背景に、
日本ではじめて予定されていたゼネラル・ストライキが
連合国軍最高司令官マッカーサーの命令で中止された、
いわゆる「2.1ゼネスト」の日でもあった。
復職と同時に組合活動に身を投じた兜太さん、
一九五〇年から福島、神戸、長崎の三支店に飛ばされ続けた。いわゆるヒヤメシ。
しかし、皮肉なことに、この十年間が俳人金子兜太を鍛え、
世界的ともいえる俳句作家を創り出す基盤ともなったことは作品が証明している。
人体冷えて東北白い花盛り (福島)
銀行員ら朝より蛍光す烏賊(いか)のごとく (神戸)
彎曲(わんきょく)し火傷(かしょう)し爆心地のマラソン (長崎)
三句目など、ことに海外で広く称賛されている。
いまや、俳句はHAIKUとして、
地球上のあらゆる国のあらゆる人々がその母国語で作品を生み出している。
金子兜太の国外での知名度は抜群だ。
アメリカ合衆国、中国、ドイツ、フランス、イタリアその他、
作品が有季定型から自由であることもあり、積極的に翻訳され読まれている。
亡くなる二日前、熊谷の病院を訪ねた。
赤城山、男体山を望み、秩父音頭の流れる明るい病室。
こよなく優しい表情で握手に応えてくださった。
まったく苦しまれず、
一子金子眞土(まつち)さんご夫妻に見守られてのご出立だった。
前人未踏、九十八歳の現役大往生。
荒凡夫(あらぼんぷ)そして存在者としての悠々たるご生涯に合掌する。
(くろだ・ももこ=俳人)