ぐんぐん飛ぶ龍の 角に しがみつき はりついて
角の一本と化し 息もつけず
漂い まつわりつく雲を つきぬけ
それとも 目の玉だろうか
かたつむりや なめくじのように 角の先に ゆらめく
身を よじると 大波しぶきの はね注ぐ中 おぼろに見える
もう一本の角に しがみつく姿が
遠い過去か はるかな未來の 夢の中の 自分のように
もはや ふれることも 能はず 知る由も なき
夜明けは近いのか 雲 かきわける まるく ひらかれた 爪の下
青暗い海に包まれ ほの光る玉は 澹 として ゆれ まわる
めざす 時に対し 鉛直 の門へ たどりつけば
雨のあわいに 流れる鏡像は消え ひとりに なるだろうか
「ローマに消えた男」 という映画で
蒸発した野党党首の兄に 成り代わった双子の弟が
党内会議の席を中座する際 ふいに交響楽の数節を口誦み
振り返って詠唱した 俳句は 字幕では つぎのとおりだった
ときは春 淡霧は 名もなき山を包む
わが姿なりや 背を向け 雨に去りゆくは
イタリア語では つぎのように聴こえる
E' primavera, sottili veli di nebbia circondano anche la montagna senza nome.
E, la mia, questa figura di spalle, si ne va nella pioggia.
前半は 芭蕉 「野ざらし紀行」 の
春なれや 名もなき山の 薄霞
後半は 元の句に見当らぬものの 前半を受けた 続き としか想われぬので
もしや 詞書だろうか
(奈良に 出(いづ)る 道の ほど)
春なれや 名もなき山の 薄霞
かも知れぬ
奈良へ向かう道中 見知らぬ山の春霞を しばし眺め
それを あとに ふたたび道をたどる 旅人 芭蕉
だが 雨は どこから來たのだろう
「野ざらし紀行」 次の句 は
(二月堂に 籠りて)
水取りや 氷の僧の 沓の音
こちらの句には 水に因む文字が いくつも見受けられる
が 実際に 間近に 修二会 を拝すなら
3月1日 深夜 あたりの気を払い 11人の僧侶が 次々と お堂に入って行く
ドッドッドッドッ と 床を踏み鳴らす音が 響く
14日にわたる 大法会 「お水取り=修二会」 の 始まりである
(佐藤 道子 「東大寺お水取り」 ) と あるごとく
冷え冷えとする 寒さの中 白の紙衣をまとい 修法に打ち込む 練行衆の姿や
高鳴りする 差懸(さしかけ)という 歯のない下駄の音が 冷厳を極む
(松尾芭蕉の旅 野ざらし紀行 俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース) ように
腹の底に 物音や人声 寒さの響く 情景だろうか
御水取の儀は 真の闇のなかで 物音ひとつなく行われる
しかし この若狭井の建物には 水を汲む数人の僧以外には
なに人も入ることを許されず 内部の模様も うかがうことを許されない
そこで この行事を どう描くか と いろいろに 考えた
とにかく 若狭井に いちばん近い 渡り廊の入口で 参観している と
闇の中を 水桶を持った行列が來て 一人が 手探りで 井戸の建物の鍵を あける
ガチン ガチン という音が 真夜中に いかにも神秘に響く
そこで まず この場面で 御水取を表そう と 下図してみた が
鍵をまわす人のまわりに 大勢の人が立ち過ぎて 静かな気分の図に ならない
そこで 思い切って 内部で水を汲む場面を 自分の想像によって 描くことにした
井戸の構造も 水を汲む方式なども 一切 秘密に されている
そこで 闇の中で 神秘の水を汲む という 気持ち だけを 出したい と思い
僧も 三人にしたが これは どこまでも わたくしの心に描かれた 御水取の姿である
(難波 専太郎 「前田 青邨」)
水取りや 氷の僧の 沓の音
文字を眺めていると 五七五の頭に 「水」 「氷」 「沓」 と
「水の二態 (水 = 液体 氷 = 個体)」 を 表す文字が 大きく あるいは 上に 三つ 並び
終息するに従い 「僧」 「沓」 「音」 と
「蒸気や 湿気 (水の もう一態: 気体) が 立ち昇る 中や 間に 音声や響きを伴う」 意の
「曰(いはく)」 ( 「日(ひ・にち)」 では ない) が 小さく 下に 三つ 並ぶ
さらに 「曰(いはく)」 の前の 間に 「の」 が 三つ
「曰(いはく)」 は 象形文字で 「口から 呼気」 の形から
「(音声を出し) 言う」 意の 漢字となった
「僧」 に 含まれる 「曾」 は 象形文字で 二種類の器具が重ねられている
下は 「蒸気を発する器具」 (沸騰した湯の入った鍋など)
上は 「その上に重ねられた 蒸籠(せいろ) 」 で 「そこからも 蒸気が出ている」 ことから
「重ね 繰り返される」 「(過去から) ずっと」 「ますます」 の意を持つ
「沓」 は 会意文字で 「水」 + 「曰(いはく)」
「流れる水」の象形と「口と鼻や口から吐く息」の象形(「曰(いはく)」 「言う」の意)から
「とどまることなく 流れるように 言葉や音声が 繰り出され (繰り返され) る」 意で
もともと 「くつ」 の意は なかった
たとえば 「踏」 は 「足が (音を立て) 繰り返す」 意で 「ふむ」
そこから逆に 連想され 「沓」 は 「足が ふんでいる もの」 となったのか 定かでないが
「沓」 に 「くつ」 の意を 持たせたのは 日本で のみ 生れた用法という
「音」 は 指事文字で (「立」 と 「日」 では なく) 「取っ手のある刃物」 の象形 と
「口」の象形(「言う」の意)に 一点 加えた形(後に「曰(いはく)」と 同形となる)から
「楽器や金・石・草・木から発する おと」 という意に なった
「僧 (曾)」 「沓」 「音」 いずれも 湿り氣を帯びたものが 立ち昇る形で
ともに持つ意は 「重ねる 繰り返す 響く」
水取りや 氷の僧の 沓の音
文字から 水が重ねられる中で 氷となるが
やがて下方より 音声を帯びた 蒸気や 呼気が漂い出し
軽く 渦巻いては 立ち昇り
読経の跫(あしおと)の籠り響く 春淺き 淡き靄より
深更に滴る 閼伽井の水へ 古(いにしえ)の時の波紋を 重ね拡げてゆく
真暗闇に 息が ほの白く煙る 御水取
其処彼処で 凍りかけた しぶきから 水が滴る音が
永年に亘り 繰り返されてきた 御水取の 古(いにしえ)の響きと重なり
水に宿り 氷に鎖され 永き眠りにつく僧が つぎつぎと薄闇に立ち現れ
時空の狭間より いま此処へ 諸共に歩み出す 沓音が 聴こえるかも知れぬ
御水取に 「青衣(しゃうえ)の女人」 という 伝説 が あるそうだ
鎌倉時代 承元年間の 1210年頃 修二会で 集慶という練行衆が 過去帳を読んでいると
目の前に 青き衣の女人が 忽然と現れ 「なにゆえ 我が名を 読み落としたるとや」
と恨めし気に 言ったので 咄嗟に 着衣の色を見て 「青衣の女人」 と 読上げると
破顔一笑 かき消えた という
爾来 実際に 源 頼朝から数えて 18人目に 「青衣 女人」 と 書かれ
過去帳の朗読では 必ず呼ばれている その女人が どこの だれなのか
いま以て 知られていない
「ローマに消えた男」 の原題は Viva la libertà
「自由よ 永遠なれ」 または 「自由を 生きよ」 だろうか
この言葉は モーツァルト の歌劇 「ドン・ジョヴァンニ」 の中で
不思議な因縁を持つ アリアであり 連呼される文言だそうだ
すぐれて わかりやすい解説に めぐり会ったので 以下に引用する
モーツァルトが プラハで 束の間の 幸せな時を過ごしていた頃
同地の歌劇団の支配人から オペラの依頼があった
内容は スペインの蕩児の行状の末路を描く 滑稽劇
ドラマは スペインの貴族 ドン・ジョヴァンニによる 騎士長 (ドンナ・アンナの父)の殺害
から始まり その騎士長の亡霊の力により ドン・ジョヴァンニの地獄落ち を もって終る
死で始まり 死で終る このオペラを 悲劇と呼ぶことは できない
悲劇と喜劇 真面目と滑稽 戦慄と笑いが 混じり合い 明と暗の中で進行し
一応 ハッピー・エンドで終るが 地獄に落ちた ドン・ジョヴァンニの方が なぜか輝き
生き残り 新たな生活に入る 人たちの方が 光を失って 見える
父親殺しと その懲罰を内容とする このオペラの作曲は 春から夏にかけて
ちょうど 父レオポルトの死を挟んだ時期に 進められた
モーツァルトは 実生活を そのまま作品に反映させるような 作家では なかったが
彼にとって 絶対的な存在であった 父の死は やはり大きな影響を 作曲に与えている
(中略) プラハ音楽院 図書館に残る 楽譜 (モーツァルト自身が 目を通した と言われる)
には、後にウィーンで公演されたときには 削除された 問題の一節が 書かれてある
それは 仮面をつけて訪れた アンナ、エルヴィラ、オッタヴィオ を歓待する
ドン・ジョヴァンニ が 「自由 万歳 Viva la liberta」 と 歌うところ であり
プラハでの初演の際 舞台の上の歌手たちが 12回も 合唱で繰り返した という
おりしも フランスから届く 革命の報告が ウィーンの貴族たちの 神経を尖らせていた
モーツァルトには 政治的な意図が なかったのかもしれないが
このオペラは多くの問題を含み 多様な解釈と想像をかきたてる 傑作である
(Mozart con grazia:A data book on Wolfgang Amadé Mozart /森下 未知世 編集
K.527 オペラ・ブッファ 「ドン・ジョヴァンニ」 1787)
映画で 弟の名は この ジョヴァンニ なのであり
ジョヴァンニ といえば 旧約聖書の 荒野で人々に悔い改めるよう説き
ヘロデ と 義理の娘 サロメ のために 首斬られる 洗礼者 聖ヨハネ の 名だ
フィレンツェの銀行家 バルディ家の 礼拝堂のために描かれた
ボッティチェッリ の 聖母子 は 二人の 聖ヨハネ を 伴う
向かって 左が 洗礼者 聖ヨハネ 右が 福音書記者 聖ヨハネ
伝えられる没年齢で 描かれている
兄 ヤコブ とともに ガリラヤ湖 で イエス の最初の弟子の一人となった ヨハネ は
使徒のうち 唯一 殉教することなく 聖母 と ともにあり
黙示録 と 福音書 を著し 老年で亡くなった とされる
ヨハネ の 古称 は ヨカナーン Yohanan イオアン Ἰωάννης Ioánnes で
「神の恵み (神は恵む) Y (A) H W (E) H (Yod Heh Vav Heh) is gracious 」 の意
「神」 の 前半 Yod は 「 ' 」 のような 発声する際の 「呼気」 を 表す 最小の文字で
「すべての文字や音声 言葉や絵図の中にあり」 「もっとも謙虚で」
「遍在する」 「耀きや 息吹や 搏動」 であり 「差し伸べられ 祈る手」であり
「十(指)」 を表す 文字で 後の 「y」 であり 「弥勒」 を表す 梵字 「ユ」 に 似る
「神」 の 後半は 「あるべき」 (to be) 「なる (來たる) べき」 (to become) 意の
古語で 回文の (どちらから読んでも同じ) הוה (hawah) から 來ている という
また この語 (hawah) は 『旧約聖書』 「創世記」 に おいて
アダムのあばら骨から 作られた とされる イヴ の 呼び名である
アラム語の (Hawwah) や ヘブライ語の (Chavvah)に 似ている
それらは 「あばら骨から 出(來)た」 「生命を 育み 司る」 意を 持つ
メソポタミアの神 エンキ についての物語で
娘 ニンティ が生まれる 経緯の解説に 次のように ある
(このメソポタミア)神話物語は総じて 土 (女神ニンフルサグ) に
「水 (エンキ神)」 が 加わる ことによって 生命が 産み出される ということ
また 生命が生み出され 育った後も 例えば 植物が果実を形成する 時など
再び 「水」 が 必要とされる ということを 象徴的に示している
ニンティ (シュメール語で 「あばら骨(Rib)から出た女神」) は ニンフルサグの
称号のひとつである 「生命(Life)の女神」 と 語感上の関連性が みられ
ニンティが 生命の女神としての 役割を ニンフルサグ から 引き継いだことが 考えられる
ニンティは その後 すべての生命の母として 称えられるようになった
それは 後世の フルリ人の女神ケバ (Kheba:ヘバート (Hebat)
ケパート (Khepat) ともいう) も 同様である
また 『旧約聖書』 の 「創世記」 に おいて アダムのあばら骨から 作られたとされる
イヴ (ヘブライ人の神話では ハッワー (Chavvah)
アラム人 の神話では ハウワー (Hawwah)) についても
同じ呼び方であり 上記のシュメール人の神話が 転じた と考えられる
(Wikipedia エンキ 「女神ニンフルサグとエンキの末裔たち」)
あばらの辺りには 心臓があり
それは 一つしかない ことは 太古より よく知られていよう
鼻腔や口腔を含め (左右) 対 (称) に なっているように 想われる 人体の中で
はっきりと (左に) 偏っている 一つだけの 心臓は
実は やはり もう一つ (右にも) あったのだ としたら
というより 精確には もう一つ 隠れた心臓があって
それらは つねに 同期して搏動していた としたら
交代で 眠りについていた としたら
人類創世の 暁の夢の中 いまは あばらの裡で 木霊を聴いている 空洞で
光と翳のように 対となっていた もう一つの 見えず 聴こえぬ 心臓が
大いなる力によって 取り出され あばらを貫け出るとき
外された一本の骨とともに 光に象られた翳のように
神に似せられた 男性と すべて同じで まったく異なる
女性という
自らの裡に 新たな もう一つの生命を育むことができる
人類が つくり出された としたら
左右対称に見える X が 性を司る 遺伝子の形に みられるが
これを הוה (hawah) (來るべき) 生命を育む もの と考えれば
これと対となり 男性が持つ もう一つの 切り詰められたような形の 遺伝子 Y は
X の あばら一つが 欠けた姿に 見えぬだろうか
ほんとうは 逆なのだろう
すべては 女性から 生み出されたのだろう
だが 心から求めるものを 失ったのは
男性のほうであることは 真実かも知れぬ
男性が 失われた もう一つの 心臓を追い求め
自らの生命の息吹きを 泉のごとく 川のごとく 水に託し 流し放つ
ことしかできぬ のに対し
それを受け入れ 自らの内に秘められた 透き通った心臓の木霊に
新たな 生命の搏動を 開始させ得る 女性は
X を 二つ 重ね持っているのも 不思議ではない のかも知れぬ
未來の 遙か彼方に 現在と 過去と ともにあり
無限に 生命を育みつづける 「神」 は 「弥勒」 のような存在で
その最初の発語 イタリア語で Io は 「神」 を内包し 「神」 を 導き出し
「神」 へと 到る 「人」 の 繰り返され 立ち昇る 呼気であり 生命の 息吹として
「いま そして これからも ある (べき) 」 「遍在する 謙虚な生命の 一つ」 としての
われ (吾・我) という 一人称 でもある のかも知れぬ
神は遍在し 細部に宿る というより 個々の身体においても
男性 と 女性 意識 と 無意識 交感神経 と 副交感神経 網膜の 錐状体 と 桿状体 と
幾重にも 二つに分裂し 互いに 計り知れぬ 不可侵の掟に縛られながらも
奇妙な交流をなしつつ 交代し 対となって バランスを取り合い
どちらかが もう一方を制し 支配下に置くこともなく
細胞 や 神経 や ミトコンドリア や RNA などの 一つ一つを
管理 制御し 君臨する わけでもなく
もとより 独裁 抑圧 搾取する つもりも なくとも
一つ一つの声に 耳を傾け 善処しようとも 一つ一つ すべてに遍く
慈愛に満ち 幸せで健やかであるよう 尽くせる わけでもない
われわれ と われわれを構成するもの とは 時空 = 次元 が異なる ように
われわれの宇宙が 構成する より高次の存在は たしかに あるはずだが
その時空は われわれの それと重なっていても 直接 ふれ合うこと や 対話は 不能で
想いを どんなに馳せても 届くことはないが 響くように 道が編み出され
連なり 紆余曲折し 重力レンズ のまわりを滑ったり 堂々巡りしつつ
突如 事象の地平面 を翳(かす)め抜けるように なにかが 意図とは別に 伝わっている
重力波の ごとく
愛するものの 眸の耀き 聲の調子 肌の馨りの すべての底に流れる
鼓動の音色が 自らのそれと同期し 調和し 至高の旋律を
無限の変転を遂げながら 舞い奏で つづけるのを
あらゆる響きと囁きの裡に 聴き取る ごとく
おそらく 無意識は それを あらゆるものの裡に 聴き取り 聴き分けられるのだろうが
それを つづければ 心は千々に裂け 砕け 狂ってしまう
だから眠らねばならぬ 不安な夢に ゆさぶられつつ
日中 起きて番をする 意識には それは ほとんど聴こえぬ
意識が眠るとき 無意識は目覚め すっきりとして
それまで意識の居た 荒涼とした部屋部屋を歩き回り
溜り 散らかった 些細な悩みを つま先で蹴飛ばし
片づけてしまいながら 仕舞われたまま 忘れられ
埃に塗(まみ)れた 大切なものを引っ張り出し
眺めるかも知れぬ
見つけたところへ
その虚しき塵埃の堆積した 天辺へ 置き去ったまま
また 何処かの角を ぶらぶら曲がって 出てゆく
嗅ぎつけ 忍び寄る 数多の
尽きることなく 懼れ 求め 争い 迷妄し 追い縋る 手を
自らへ惹きつけ もはや双方逃れられぬ程 深く食い込ませると
テロメア を切り 奈落へ下る
それらは墜ち 灼け頽れ 凍り砕け 戻って來れぬが
暗黒と眩さと 灼熱と極寒を透り抜け
灰に塗(まみ)れた 一すじの翳が ゆらりと立ち上がる
軋む肺の奥から
心安らぎ 喜びと力漲る 懐かしき曲が
口をついて まろび出
昏い胎内の 水の中で響(とよ)む
旨(うま)し眠りへと 帰ってゆく
角の一本と化し 息もつけず
漂い まつわりつく雲を つきぬけ
それとも 目の玉だろうか
かたつむりや なめくじのように 角の先に ゆらめく
身を よじると 大波しぶきの はね注ぐ中 おぼろに見える
もう一本の角に しがみつく姿が
遠い過去か はるかな未來の 夢の中の 自分のように
もはや ふれることも 能はず 知る由も なき
夜明けは近いのか 雲 かきわける まるく ひらかれた 爪の下
青暗い海に包まれ ほの光る玉は 澹 として ゆれ まわる
めざす 時に対し 鉛直 の門へ たどりつけば
雨のあわいに 流れる鏡像は消え ひとりに なるだろうか
前田 青邨 暁
「ローマに消えた男」 という映画で
蒸発した野党党首の兄に 成り代わった双子の弟が
党内会議の席を中座する際 ふいに交響楽の数節を口誦み
振り返って詠唱した 俳句は 字幕では つぎのとおりだった
ときは春 淡霧は 名もなき山を包む
わが姿なりや 背を向け 雨に去りゆくは
イタリア語では つぎのように聴こえる
E' primavera, sottili veli di nebbia circondano anche la montagna senza nome.
E, la mia, questa figura di spalle, si ne va nella pioggia.
前半は 芭蕉 「野ざらし紀行」 の
春なれや 名もなき山の 薄霞
後半は 元の句に見当らぬものの 前半を受けた 続き としか想われぬので
もしや 詞書だろうか
(奈良に 出(いづ)る 道の ほど)
春なれや 名もなき山の 薄霞
かも知れぬ
奈良へ向かう道中 見知らぬ山の春霞を しばし眺め
それを あとに ふたたび道をたどる 旅人 芭蕉
だが 雨は どこから來たのだろう
「野ざらし紀行」 次の句 は
(二月堂に 籠りて)
水取りや 氷の僧の 沓の音
こちらの句には 水に因む文字が いくつも見受けられる
が 実際に 間近に 修二会 を拝すなら
3月1日 深夜 あたりの気を払い 11人の僧侶が 次々と お堂に入って行く
ドッドッドッドッ と 床を踏み鳴らす音が 響く
14日にわたる 大法会 「お水取り=修二会」 の 始まりである
(佐藤 道子 「東大寺お水取り」 ) と あるごとく
冷え冷えとする 寒さの中 白の紙衣をまとい 修法に打ち込む 練行衆の姿や
高鳴りする 差懸(さしかけ)という 歯のない下駄の音が 冷厳を極む
(松尾芭蕉の旅 野ざらし紀行 俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース) ように
腹の底に 物音や人声 寒さの響く 情景だろうか
前田 青邨 御水取 第十一段
青邨 によれば御水取の儀は 真の闇のなかで 物音ひとつなく行われる
しかし この若狭井の建物には 水を汲む数人の僧以外には
なに人も入ることを許されず 内部の模様も うかがうことを許されない
そこで この行事を どう描くか と いろいろに 考えた
とにかく 若狭井に いちばん近い 渡り廊の入口で 参観している と
闇の中を 水桶を持った行列が來て 一人が 手探りで 井戸の建物の鍵を あける
ガチン ガチン という音が 真夜中に いかにも神秘に響く
そこで まず この場面で 御水取を表そう と 下図してみた が
鍵をまわす人のまわりに 大勢の人が立ち過ぎて 静かな気分の図に ならない
そこで 思い切って 内部で水を汲む場面を 自分の想像によって 描くことにした
井戸の構造も 水を汲む方式なども 一切 秘密に されている
そこで 闇の中で 神秘の水を汲む という 気持ち だけを 出したい と思い
僧も 三人にしたが これは どこまでも わたくしの心に描かれた 御水取の姿である
(難波 専太郎 「前田 青邨」)
水取りや 氷の僧の 沓の音
文字を眺めていると 五七五の頭に 「水」 「氷」 「沓」 と
「水の二態 (水 = 液体 氷 = 個体)」 を 表す文字が 大きく あるいは 上に 三つ 並び
終息するに従い 「僧」 「沓」 「音」 と
「蒸気や 湿気 (水の もう一態: 気体) が 立ち昇る 中や 間に 音声や響きを伴う」 意の
「曰(いはく)」 ( 「日(ひ・にち)」 では ない) が 小さく 下に 三つ 並ぶ
さらに 「曰(いはく)」 の前の 間に 「の」 が 三つ
「曰(いはく)」 は 象形文字で 「口から 呼気」 の形から
「(音声を出し) 言う」 意の 漢字となった
「僧」 に 含まれる 「曾」 は 象形文字で 二種類の器具が重ねられている
下は 「蒸気を発する器具」 (沸騰した湯の入った鍋など)
上は 「その上に重ねられた 蒸籠(せいろ) 」 で 「そこからも 蒸気が出ている」 ことから
「重ね 繰り返される」 「(過去から) ずっと」 「ますます」 の意を持つ
「沓」 は 会意文字で 「水」 + 「曰(いはく)」
「流れる水」の象形と「口と鼻や口から吐く息」の象形(「曰(いはく)」 「言う」の意)から
「とどまることなく 流れるように 言葉や音声が 繰り出され (繰り返され) る」 意で
もともと 「くつ」 の意は なかった
たとえば 「踏」 は 「足が (音を立て) 繰り返す」 意で 「ふむ」
そこから逆に 連想され 「沓」 は 「足が ふんでいる もの」 となったのか 定かでないが
「沓」 に 「くつ」 の意を 持たせたのは 日本で のみ 生れた用法という
「音」 は 指事文字で (「立」 と 「日」 では なく) 「取っ手のある刃物」 の象形 と
「口」の象形(「言う」の意)に 一点 加えた形(後に「曰(いはく)」と 同形となる)から
「楽器や金・石・草・木から発する おと」 という意に なった
「僧 (曾)」 「沓」 「音」 いずれも 湿り氣を帯びたものが 立ち昇る形で
ともに持つ意は 「重ねる 繰り返す 響く」
水取りや 氷の僧の 沓の音
文字から 水が重ねられる中で 氷となるが
やがて下方より 音声を帯びた 蒸気や 呼気が漂い出し
軽く 渦巻いては 立ち昇り
読経の跫(あしおと)の籠り響く 春淺き 淡き靄より
深更に滴る 閼伽井の水へ 古(いにしえ)の時の波紋を 重ね拡げてゆく
真暗闇に 息が ほの白く煙る 御水取
其処彼処で 凍りかけた しぶきから 水が滴る音が
永年に亘り 繰り返されてきた 御水取の 古(いにしえ)の響きと重なり
水に宿り 氷に鎖され 永き眠りにつく僧が つぎつぎと薄闇に立ち現れ
時空の狭間より いま此処へ 諸共に歩み出す 沓音が 聴こえるかも知れぬ
御水取に 「青衣(しゃうえ)の女人」 という 伝説 が あるそうだ
鎌倉時代 承元年間の 1210年頃 修二会で 集慶という練行衆が 過去帳を読んでいると
目の前に 青き衣の女人が 忽然と現れ 「なにゆえ 我が名を 読み落としたるとや」
と恨めし気に 言ったので 咄嗟に 着衣の色を見て 「青衣の女人」 と 読上げると
破顔一笑 かき消えた という
爾来 実際に 源 頼朝から数えて 18人目に 「青衣 女人」 と 書かれ
過去帳の朗読では 必ず呼ばれている その女人が どこの だれなのか
いま以て 知られていない
「ローマに消えた男」 の原題は Viva la libertà
「自由よ 永遠なれ」 または 「自由を 生きよ」 だろうか
この言葉は モーツァルト の歌劇 「ドン・ジョヴァンニ」 の中で
不思議な因縁を持つ アリアであり 連呼される文言だそうだ
すぐれて わかりやすい解説に めぐり会ったので 以下に引用する
モーツァルトが プラハで 束の間の 幸せな時を過ごしていた頃
同地の歌劇団の支配人から オペラの依頼があった
内容は スペインの蕩児の行状の末路を描く 滑稽劇
ドラマは スペインの貴族 ドン・ジョヴァンニによる 騎士長 (ドンナ・アンナの父)の殺害
から始まり その騎士長の亡霊の力により ドン・ジョヴァンニの地獄落ち を もって終る
死で始まり 死で終る このオペラを 悲劇と呼ぶことは できない
悲劇と喜劇 真面目と滑稽 戦慄と笑いが 混じり合い 明と暗の中で進行し
一応 ハッピー・エンドで終るが 地獄に落ちた ドン・ジョヴァンニの方が なぜか輝き
生き残り 新たな生活に入る 人たちの方が 光を失って 見える
父親殺しと その懲罰を内容とする このオペラの作曲は 春から夏にかけて
ちょうど 父レオポルトの死を挟んだ時期に 進められた
モーツァルトは 実生活を そのまま作品に反映させるような 作家では なかったが
彼にとって 絶対的な存在であった 父の死は やはり大きな影響を 作曲に与えている
(中略) プラハ音楽院 図書館に残る 楽譜 (モーツァルト自身が 目を通した と言われる)
には、後にウィーンで公演されたときには 削除された 問題の一節が 書かれてある
それは 仮面をつけて訪れた アンナ、エルヴィラ、オッタヴィオ を歓待する
ドン・ジョヴァンニ が 「自由 万歳 Viva la liberta」 と 歌うところ であり
プラハでの初演の際 舞台の上の歌手たちが 12回も 合唱で繰り返した という
おりしも フランスから届く 革命の報告が ウィーンの貴族たちの 神経を尖らせていた
モーツァルトには 政治的な意図が なかったのかもしれないが
このオペラは多くの問題を含み 多様な解釈と想像をかきたてる 傑作である
(Mozart con grazia:A data book on Wolfgang Amadé Mozart /森下 未知世 編集
K.527 オペラ・ブッファ 「ドン・ジョヴァンニ」 1787)
映画で 弟の名は この ジョヴァンニ なのであり
ジョヴァンニ といえば 旧約聖書の 荒野で人々に悔い改めるよう説き
ヘロデ と 義理の娘 サロメ のために 首斬られる 洗礼者 聖ヨハネ の 名だ
フィレンツェの銀行家 バルディ家の 礼拝堂のために描かれた
ボッティチェッリ の 聖母子 は 二人の 聖ヨハネ を 伴う
向かって 左が 洗礼者 聖ヨハネ 右が 福音書記者 聖ヨハネ
伝えられる没年齢で 描かれている
兄 ヤコブ とともに ガリラヤ湖 で イエス の最初の弟子の一人となった ヨハネ は
使徒のうち 唯一 殉教することなく 聖母 と ともにあり
黙示録 と 福音書 を著し 老年で亡くなった とされる
ボッティチェッリ Botticelli バルディの聖母子 Madonna Bardi Oil on poplar wood
油彩・板 1484-1485年 185×180cm ベルリン国立絵画館 Gemäldegalerie, Berlin
油彩・板 1484-1485年 185×180cm ベルリン国立絵画館 Gemäldegalerie, Berlin
ヨハネ の 古称 は ヨカナーン Yohanan イオアン Ἰωάννης Ioánnes で
「神の恵み (神は恵む) Y (A) H W (E) H (Yod Heh Vav Heh) is gracious 」 の意
「神」 の 前半 Yod は 「 ' 」 のような 発声する際の 「呼気」 を 表す 最小の文字で
「すべての文字や音声 言葉や絵図の中にあり」 「もっとも謙虚で」
「遍在する」 「耀きや 息吹や 搏動」 であり 「差し伸べられ 祈る手」であり
「十(指)」 を表す 文字で 後の 「y」 であり 「弥勒」 を表す 梵字 「ユ」 に 似る
「神」 の 後半は 「あるべき」 (to be) 「なる (來たる) べき」 (to become) 意の
古語で 回文の (どちらから読んでも同じ) הוה (hawah) から 來ている という
また この語 (hawah) は 『旧約聖書』 「創世記」 に おいて
アダムのあばら骨から 作られた とされる イヴ の 呼び名である
アラム語の (Hawwah) や ヘブライ語の (Chavvah)に 似ている
それらは 「あばら骨から 出(來)た」 「生命を 育み 司る」 意を 持つ
メソポタミアの神 エンキ についての物語で
娘 ニンティ が生まれる 経緯の解説に 次のように ある
(このメソポタミア)神話物語は総じて 土 (女神ニンフルサグ) に
「水 (エンキ神)」 が 加わる ことによって 生命が 産み出される ということ
また 生命が生み出され 育った後も 例えば 植物が果実を形成する 時など
再び 「水」 が 必要とされる ということを 象徴的に示している
ニンティ (シュメール語で 「あばら骨(Rib)から出た女神」) は ニンフルサグの
称号のひとつである 「生命(Life)の女神」 と 語感上の関連性が みられ
ニンティが 生命の女神としての 役割を ニンフルサグ から 引き継いだことが 考えられる
ニンティは その後 すべての生命の母として 称えられるようになった
それは 後世の フルリ人の女神ケバ (Kheba:ヘバート (Hebat)
ケパート (Khepat) ともいう) も 同様である
また 『旧約聖書』 の 「創世記」 に おいて アダムのあばら骨から 作られたとされる
イヴ (ヘブライ人の神話では ハッワー (Chavvah)
アラム人 の神話では ハウワー (Hawwah)) についても
同じ呼び方であり 上記のシュメール人の神話が 転じた と考えられる
(Wikipedia エンキ 「女神ニンフルサグとエンキの末裔たち」)
あばらの辺りには 心臓があり
それは 一つしかない ことは 太古より よく知られていよう
鼻腔や口腔を含め (左右) 対 (称) に なっているように 想われる 人体の中で
はっきりと (左に) 偏っている 一つだけの 心臓は
実は やはり もう一つ (右にも) あったのだ としたら
というより 精確には もう一つ 隠れた心臓があって
それらは つねに 同期して搏動していた としたら
交代で 眠りについていた としたら
人類創世の 暁の夢の中 いまは あばらの裡で 木霊を聴いている 空洞で
光と翳のように 対となっていた もう一つの 見えず 聴こえぬ 心臓が
大いなる力によって 取り出され あばらを貫け出るとき
外された一本の骨とともに 光に象られた翳のように
神に似せられた 男性と すべて同じで まったく異なる
女性という
自らの裡に 新たな もう一つの生命を育むことができる
人類が つくり出された としたら
左右対称に見える X が 性を司る 遺伝子の形に みられるが
これを הוה (hawah) (來るべき) 生命を育む もの と考えれば
これと対となり 男性が持つ もう一つの 切り詰められたような形の 遺伝子 Y は
X の あばら一つが 欠けた姿に 見えぬだろうか
ほんとうは 逆なのだろう
すべては 女性から 生み出されたのだろう
だが 心から求めるものを 失ったのは
男性のほうであることは 真実かも知れぬ
男性が 失われた もう一つの 心臓を追い求め
自らの生命の息吹きを 泉のごとく 川のごとく 水に託し 流し放つ
ことしかできぬ のに対し
それを受け入れ 自らの内に秘められた 透き通った心臓の木霊に
新たな 生命の搏動を 開始させ得る 女性は
X を 二つ 重ね持っているのも 不思議ではない のかも知れぬ
未來の 遙か彼方に 現在と 過去と ともにあり
無限に 生命を育みつづける 「神」 は 「弥勒」 のような存在で
その最初の発語 イタリア語で Io は 「神」 を内包し 「神」 を 導き出し
「神」 へと 到る 「人」 の 繰り返され 立ち昇る 呼気であり 生命の 息吹として
「いま そして これからも ある (べき) 」 「遍在する 謙虚な生命の 一つ」 としての
われ (吾・我) という 一人称 でもある のかも知れぬ
神は遍在し 細部に宿る というより 個々の身体においても
男性 と 女性 意識 と 無意識 交感神経 と 副交感神経 網膜の 錐状体 と 桿状体 と
幾重にも 二つに分裂し 互いに 計り知れぬ 不可侵の掟に縛られながらも
奇妙な交流をなしつつ 交代し 対となって バランスを取り合い
どちらかが もう一方を制し 支配下に置くこともなく
細胞 や 神経 や ミトコンドリア や RNA などの 一つ一つを
管理 制御し 君臨する わけでもなく
もとより 独裁 抑圧 搾取する つもりも なくとも
一つ一つの声に 耳を傾け 善処しようとも 一つ一つ すべてに遍く
慈愛に満ち 幸せで健やかであるよう 尽くせる わけでもない
われわれ と われわれを構成するもの とは 時空 = 次元 が異なる ように
われわれの宇宙が 構成する より高次の存在は たしかに あるはずだが
その時空は われわれの それと重なっていても 直接 ふれ合うこと や 対話は 不能で
想いを どんなに馳せても 届くことはないが 響くように 道が編み出され
連なり 紆余曲折し 重力レンズ のまわりを滑ったり 堂々巡りしつつ
突如 事象の地平面 を翳(かす)め抜けるように なにかが 意図とは別に 伝わっている
重力波の ごとく
愛するものの 眸の耀き 聲の調子 肌の馨りの すべての底に流れる
鼓動の音色が 自らのそれと同期し 調和し 至高の旋律を
無限の変転を遂げながら 舞い奏で つづけるのを
あらゆる響きと囁きの裡に 聴き取る ごとく
ニコライ・リョーリフ Nicholas Roerich (1874 – 1947) Nikolai Rerikh
(Никола́й Ре́рих) And We are Trying, from the "Sancta" Series
(Никола́й Ре́рих) And We are Trying, from the "Sancta" Series
おそらく 無意識は それを あらゆるものの裡に 聴き取り 聴き分けられるのだろうが
それを つづければ 心は千々に裂け 砕け 狂ってしまう
だから眠らねばならぬ 不安な夢に ゆさぶられつつ
日中 起きて番をする 意識には それは ほとんど聴こえぬ
意識が眠るとき 無意識は目覚め すっきりとして
それまで意識の居た 荒涼とした部屋部屋を歩き回り
溜り 散らかった 些細な悩みを つま先で蹴飛ばし
片づけてしまいながら 仕舞われたまま 忘れられ
埃に塗(まみ)れた 大切なものを引っ張り出し
眺めるかも知れぬ
見つけたところへ
その虚しき塵埃の堆積した 天辺へ 置き去ったまま
また 何処かの角を ぶらぶら曲がって 出てゆく
嗅ぎつけ 忍び寄る 数多の
尽きることなく 懼れ 求め 争い 迷妄し 追い縋る 手を
自らへ惹きつけ もはや双方逃れられぬ程 深く食い込ませると
テロメア を切り 奈落へ下る
それらは墜ち 灼け頽れ 凍り砕け 戻って來れぬが
暗黒と眩さと 灼熱と極寒を透り抜け
灰に塗(まみ)れた 一すじの翳が ゆらりと立ち上がる
軋む肺の奥から
心安らぎ 喜びと力漲る 懐かしき曲が
口をついて まろび出
昏い胎内の 水の中で響(とよ)む
旨(うま)し眠りへと 帰ってゆく
(坤 へ つづく)