窓に額を圧しつけていると、犬が鼻で肩を突いたので、顔を上げた
遠くで風の音がして、其の中からやがて、列車が近づいて来る音がした
犬は鼻息で曇るガラス越しに一心に下を見つめていた。 額が冷たい板のようで、
ガラスの向こうに焦点を合わせようとすると一瞬目眩がした
深い谷は、一面に白樺が生い茂り、初夏で、青い心臓の形の葉が広がっていた
季節外れの雪に濡れて、風に翻っている。 間もなく夜が明ける。 夜明け前の一瞬、
谷底を列車が走り抜ける。 薄く雪の降り積もった線路が、青く溶けていく薄闇の中で
白々と光っている。 犬がぴんと耳を立て、窓枠に前肢を突く
霧の中から黒く濡れて姿を現し、白い煙を吐きながら一気に駆け抜ける
窓枠ががたがた揺れ、どきどきするように心臓に握った手を圧し当てる
犬がうんと下を向いて窓枠の露の傍へ濡れた鼻を垂らす。 がたがたと列車は
真下を走り抜ける。 何処までも続くかと思う車両の最後の端が霧の中から現れて、
消え去る前に犬はベンチを飛び降り、隙間の開いた扉から鼻を出して、外の匂いを嗅ぐ
カーテンをかき分け、後を追うと、振り返って、冷えるが雨や雪ではないことを教えてくれる
短い毛の背に手を置いて、丘の上へ出る。 すっかり夜が明けて、淡い水色の空が
頭上に広がっている。 列車が通り過ぎた線路は、二筋の鏡のようだった。 瞼を閉じると
弾力のある薄闇が滑ってきて、頭の後ろへ出て行く。 犬のように見なければよかったと思う
今日は狩の日。 夕方になって、扉が開けっ放しになり、泥だらけの靴が床の上に
曳き摺った跡を残す。 煤けた梁の廻りに煙が立ち籠め、同じ話が何回もされて、音はしない
腿が勢いよく叩かれ、テーブルがどんどん揺れて、音はしない
細く開いた扉の向こうでは、何かが違う速度で滴る音がしている。 天井へ漂う煙や床に
散った松葉の間に吐き出される酸っぱい腐臭を縫って、空気を重く蝋のように塗り固めて
目の前を真っ白にする匂いが立ち籠めていた
手足の力が抜けて冷たくなり、火の傍で無関心に寝そべっていた犬が薄目を開けて
此方を見た。 犬が運んでくれたので、何本も折り重なった首や、ぎっしりと詰め込まれ、
べったりと塞がれた眼で此方を見遣っているものの間を、通り抜けることが出来た
外の空気は冷たかったが、柔らかい感じがした。 日暮れ前に通る列車を見る為に、
窓の下に坐ったが、耳の中で薄闇が渦巻いて、目の前がぼやけた
犬が舐めてくれたが、手足は冷たく消えかかっていた。 毛皮の中に手を差し入れた
犬もまた毛皮の手触りがあるだけで、下に温かな血は流れていないのだった
石の壁には日差しの温もりが残っていた。 自分も此処に来たばかりの時は、
あのように目を塞がれて、手足を消し去るような匂いを放っていた、と思いながら、
列車を待った。 高く、一羽の鳥が谷の上を舞っていたが、声は立てなかった
間もなく日没だった。 目を閉じようとしたが、犬の動きで列車が来たのが判った
乾いた唇から、大きく息が洩れた
列車がやって来て、日没の中を黄色く輝きながら、ごとごとと走り去った
壁に凭れて振動に耳を澄ませていると、空っぽの胸の中で心臓が音を立てて動くような
気がする。 日没前の列車はいつも短いけれど、遠くから温かな思いを運んで来る
手足はまだ透き通っていたが、立ち上がることが出来た。 いつかもう少し大きくなれたら、
遙か遠くから鼓動を運んで、何処か彼方へと通り過ぎて行く、この古い軌道を離れて、
犬と一緒に、白樺の林を何処までも歩いて行くだろう
薄く雪の積もった草の上を歩いて行くと、犬の毛皮から八重桜の花びらが一つまた一つ
と転がり出て、足跡の上に散っていく。 丘の上で待っているのを初めて見た時には、
背後に重く花房を垂れた大木が、逆光でぼんやり見えたように思ったものだ
初夏になると毛皮から花びらが湧き出して、止まらないのだった。 泥んこになった
雪の上に花びらを撒き散らしながら、林の中を進んで行くと、犬が立ち止まった
白樺が疎らな処に、骨と皮のような人が休んでいた。 鏡のように暗い水面に、頭を垂れていた
顔から滴り落ちる視線が、深い池を作ったようだった。 今その人は、水面に手を差し伸べていた
何度も失敗したように、青くふやけた手がとても長くなっていた。 つと手を差し入れると、
瞼が閉じられ、一瞬、黒い池に舞い落ちた雪のように、溶け去ってしまうのかと思われた
だが、何かふやけた重たいものを抱えて、曳き揚げた。 大きな魚のようなものは、
大きな銀色の目をして、厚く塞がれた膜の下で瞳が動いたが、寒々とした空が映るばかりだった
曇った空の下で細い腕の人は、銀色の膜が溶けて流れてしまうまで、風に吹かれながら
大きな魚を抱いていた
犬の毛皮から花びらが、後ろへ後ろへと流れていった。 ふと温かくなり、銀色の涙が流れ去った
二つの深い眼窩に、金色の光が溜まり始めた。 魚だったものが人の形になって、立ち上がった
水の傍の空に、立ったまま浮かんで、骨と皮になった人を見つめていた
耀く目には何も映らないが、目にしたものを温める。 暫く見つめていたが、不意に飛び立った
空高く舞い上がって小さな鳥のようになって、光って消えた
細い腕の人は木に凭れたまま、薄く透明になっていった。 犬が踵を返したので、
小屋へ戻る時間なのが判った。 あの人ももう直ぐ立ち上がって、林の中を歩いて行くだろう
海のほうには大きな街があるそうだ。 鳥になった人は山に住んでいる
此処まで来ればまた会える。 振り返ると、黒い池だった処に、白樺の木がまた一本、
すくすくと伸びて、小さな心臓の形の葉を幾枚か広げていた
何日かしてまた狩の日に、早くから外へ出て、犬についてまた其処へ行った
すると誰も居なくて小さな白樺の木に、鳥のような耀く目をしたものが止まっていた
犬が吠えると飛び立って、行ってしまった。 なぜ吠えたのか解らない
眩しい目で見つめたからか。 何か落して行った
犬が鼻で突いているので拾い上げると、笛のようなものだった
息を吹き込むと音はしなかったが、遠くで響いているのが判った
時々、笛を吹いている。 薄く透明になった手足は、遠くから差し伸べることができる
笛の音のように。 差し伸べるだけで、触れることは出来ない
笛はなくなっても音色は残る。 心臓のあった胸郭の空隙を取り巻くように温かく甦る
犬が小屋へ帰って行く。 背中からまた最後の花びらが落ちて、風に乗り、光った
遠くで風の音がして、其の中からやがて、列車が近づいて来る音がした
犬は鼻息で曇るガラス越しに一心に下を見つめていた。 額が冷たい板のようで、
ガラスの向こうに焦点を合わせようとすると一瞬目眩がした
深い谷は、一面に白樺が生い茂り、初夏で、青い心臓の形の葉が広がっていた
季節外れの雪に濡れて、風に翻っている。 間もなく夜が明ける。 夜明け前の一瞬、
谷底を列車が走り抜ける。 薄く雪の降り積もった線路が、青く溶けていく薄闇の中で
白々と光っている。 犬がぴんと耳を立て、窓枠に前肢を突く
霧の中から黒く濡れて姿を現し、白い煙を吐きながら一気に駆け抜ける
窓枠ががたがた揺れ、どきどきするように心臓に握った手を圧し当てる
犬がうんと下を向いて窓枠の露の傍へ濡れた鼻を垂らす。 がたがたと列車は
真下を走り抜ける。 何処までも続くかと思う車両の最後の端が霧の中から現れて、
消え去る前に犬はベンチを飛び降り、隙間の開いた扉から鼻を出して、外の匂いを嗅ぐ
カーテンをかき分け、後を追うと、振り返って、冷えるが雨や雪ではないことを教えてくれる
短い毛の背に手を置いて、丘の上へ出る。 すっかり夜が明けて、淡い水色の空が
頭上に広がっている。 列車が通り過ぎた線路は、二筋の鏡のようだった。 瞼を閉じると
弾力のある薄闇が滑ってきて、頭の後ろへ出て行く。 犬のように見なければよかったと思う
今日は狩の日。 夕方になって、扉が開けっ放しになり、泥だらけの靴が床の上に
曳き摺った跡を残す。 煤けた梁の廻りに煙が立ち籠め、同じ話が何回もされて、音はしない
腿が勢いよく叩かれ、テーブルがどんどん揺れて、音はしない
細く開いた扉の向こうでは、何かが違う速度で滴る音がしている。 天井へ漂う煙や床に
散った松葉の間に吐き出される酸っぱい腐臭を縫って、空気を重く蝋のように塗り固めて
目の前を真っ白にする匂いが立ち籠めていた
手足の力が抜けて冷たくなり、火の傍で無関心に寝そべっていた犬が薄目を開けて
此方を見た。 犬が運んでくれたので、何本も折り重なった首や、ぎっしりと詰め込まれ、
べったりと塞がれた眼で此方を見遣っているものの間を、通り抜けることが出来た
外の空気は冷たかったが、柔らかい感じがした。 日暮れ前に通る列車を見る為に、
窓の下に坐ったが、耳の中で薄闇が渦巻いて、目の前がぼやけた
犬が舐めてくれたが、手足は冷たく消えかかっていた。 毛皮の中に手を差し入れた
犬もまた毛皮の手触りがあるだけで、下に温かな血は流れていないのだった
石の壁には日差しの温もりが残っていた。 自分も此処に来たばかりの時は、
あのように目を塞がれて、手足を消し去るような匂いを放っていた、と思いながら、
列車を待った。 高く、一羽の鳥が谷の上を舞っていたが、声は立てなかった
間もなく日没だった。 目を閉じようとしたが、犬の動きで列車が来たのが判った
乾いた唇から、大きく息が洩れた
列車がやって来て、日没の中を黄色く輝きながら、ごとごとと走り去った
壁に凭れて振動に耳を澄ませていると、空っぽの胸の中で心臓が音を立てて動くような
気がする。 日没前の列車はいつも短いけれど、遠くから温かな思いを運んで来る
手足はまだ透き通っていたが、立ち上がることが出来た。 いつかもう少し大きくなれたら、
遙か遠くから鼓動を運んで、何処か彼方へと通り過ぎて行く、この古い軌道を離れて、
犬と一緒に、白樺の林を何処までも歩いて行くだろう
薄く雪の積もった草の上を歩いて行くと、犬の毛皮から八重桜の花びらが一つまた一つ
と転がり出て、足跡の上に散っていく。 丘の上で待っているのを初めて見た時には、
背後に重く花房を垂れた大木が、逆光でぼんやり見えたように思ったものだ
初夏になると毛皮から花びらが湧き出して、止まらないのだった。 泥んこになった
雪の上に花びらを撒き散らしながら、林の中を進んで行くと、犬が立ち止まった
白樺が疎らな処に、骨と皮のような人が休んでいた。 鏡のように暗い水面に、頭を垂れていた
顔から滴り落ちる視線が、深い池を作ったようだった。 今その人は、水面に手を差し伸べていた
何度も失敗したように、青くふやけた手がとても長くなっていた。 つと手を差し入れると、
瞼が閉じられ、一瞬、黒い池に舞い落ちた雪のように、溶け去ってしまうのかと思われた
だが、何かふやけた重たいものを抱えて、曳き揚げた。 大きな魚のようなものは、
大きな銀色の目をして、厚く塞がれた膜の下で瞳が動いたが、寒々とした空が映るばかりだった
曇った空の下で細い腕の人は、銀色の膜が溶けて流れてしまうまで、風に吹かれながら
大きな魚を抱いていた
犬の毛皮から花びらが、後ろへ後ろへと流れていった。 ふと温かくなり、銀色の涙が流れ去った
二つの深い眼窩に、金色の光が溜まり始めた。 魚だったものが人の形になって、立ち上がった
水の傍の空に、立ったまま浮かんで、骨と皮になった人を見つめていた
耀く目には何も映らないが、目にしたものを温める。 暫く見つめていたが、不意に飛び立った
空高く舞い上がって小さな鳥のようになって、光って消えた
細い腕の人は木に凭れたまま、薄く透明になっていった。 犬が踵を返したので、
小屋へ戻る時間なのが判った。 あの人ももう直ぐ立ち上がって、林の中を歩いて行くだろう
海のほうには大きな街があるそうだ。 鳥になった人は山に住んでいる
此処まで来ればまた会える。 振り返ると、黒い池だった処に、白樺の木がまた一本、
すくすくと伸びて、小さな心臓の形の葉を幾枚か広げていた
何日かしてまた狩の日に、早くから外へ出て、犬についてまた其処へ行った
すると誰も居なくて小さな白樺の木に、鳥のような耀く目をしたものが止まっていた
犬が吠えると飛び立って、行ってしまった。 なぜ吠えたのか解らない
眩しい目で見つめたからか。 何か落して行った
犬が鼻で突いているので拾い上げると、笛のようなものだった
息を吹き込むと音はしなかったが、遠くで響いているのが判った
時々、笛を吹いている。 薄く透明になった手足は、遠くから差し伸べることができる
笛の音のように。 差し伸べるだけで、触れることは出来ない
笛はなくなっても音色は残る。 心臓のあった胸郭の空隙を取り巻くように温かく甦る
犬が小屋へ帰って行く。 背中からまた最後の花びらが落ちて、風に乗り、光った