今回は、2000年8月に訪れた高山市の中心地から東へ2キロほどの場所に鎮座する荏名神社と境内にある巨石(膳かせ岩(推定))の紹介です。
一の鳥居 荏名神社は高山市内の中心地から5分ほど行った県道462号(岩井高山停車場線)沿いに鎮座しています。
神橋(御幣橋)(写真出典:史跡-1 荏名神社神橋とその周辺)
この橋は、撥橋(はねばし)として貴重なものだそうです。斜めに張り出した石(撥石)が特徴的です。
神橋説明 田中大秀(飛騨出身の国学者で荏名神社の再興者 田中大秀WIKI)
二の鳥居 この地方では珍しい伊勢神明です。
二の鳥居から神橋~一の鳥居を望む
拝殿(写真出典:荏名神社WIKI)
祭祀:高皇産靈神・荏名大神(愛那能(えなの)御神)・大屋津姫命
※ 荏名大神は、味鉏高日子根命(あじすきたかひこねの )(加茂社祭神)と同神とも言われています。
また、中世までは「稲置森子安大明神」と称し、安産の神とされていたそうです。
由緒:創祀未詳なれども、延喜式神名帳に曰く、飛騨國大野郡(三座の内)荏名神社是なり。三代実録に曰く、貞観九年十月五日授飛騨國従五位下荏神従五位上。飛騨後風土記に曰く、荏名子村荏名神社祭神(高御産巣日神・愛那能御神)。田中大秀翁文化十四年此神社を再建して社傍に自宅を建て、移り住み荏名翁と自号せらる。和漢三才図会に曰く、荏名明神在大原郡(原は野の誤りならむ)。(引用:岐阜神社庁 荏名神社)
由緒案内(写真クリックで拡大)
荏野文庫土蔵 飛騨高山の国学者田中大秀の文庫蔵で、荏名神社の境内にあり、火災と鼠害に備え池の中央に建てられている。土蔵は高さ約1m、1辺3.6m四方の石積みの上に建てられ、桁行3.47m、梁間3.47mの2階建で、高さは3.6mである。上階の前面に明かり窓をつけ、窓の上に大秀自ら「荏野文庫弘化乙巳秋」としたためた木額が掲げてあった。
文庫内の蔵書は、大秀没後高弟山崎弘泰の花里文庫に移され、大正元年(1912)売りに出たのを吉島休兵衛ほか五氏の援助で高山町教育会が購入した。519部1,516冊が県の重要文化財に指定され、現在高山市郷土館に収蔵されている。(転載:岐阜県文化財)
『神鈴』極めて珍しい神紋です。(この紋は 天河大弁財天社の「五十鈴」で有名です。)
千種園跡 江名子にあった大秀翁居宅(前述)の名で、その跡はいま荏名神社神域の南方に接続す る水田と化している。大伴家持の「八千種(クサ)に草木を植ゑて時ごとに咲かむ花をし 見つつしぬばな」(万葉集 4314)の歌により命名、庭にくさぐさの木草を植え、池には鯉 も泳いでいたという。
膳かせ岩(推定)境内の一画に鎮座
由緒にある「江名子川と塩谷川の合流点に一個の巨石が存在するこの神域」の「一個の巨石」が果たしてこの巨石であるのかは、定かではありませんが注連縄を渡し神聖視されているところから間違えないのでは無いかと思っています。
実は、この岩の名称は今回記事にするにあたって調べてみたのですが結局わからず。唯一手掛かりとなったのが、この写真のマップの名称から推定させて頂きました。
この「膳かせ岩」には、以下の様な謂れがあります。
法要のあるときに必要な数の膳椀を頼めば、翌日には岩の上に希望の数だけ膳椀があった。ある時1つを破損して岩上に返したためにそれ以来借りられなくなった。
これは、いわゆる全国に見られる「椀貸し伝説」のひとつと言えるでしょう。
巨石の表面を良く観察すると杯状穴や特徴的な剥離の痕跡が見られる石で興味深いです。
神橋の近くでマーキングが施された石を発見!何かを意図してここに置かれている事はあきらかでしょう。
飛騨地方には、かつて存在していたと伝わる「飛騨王朝」伝説があります。
以前探索に訪れた事がありますが、まだまだ訪れてみたい場所が多々あり機会があれば、是非また探訪してみたい地域でもあります。
(撮影:2000年8月)
お断り:2000年当時の情報となります。当時とは異なる事が想定されますので訪れる際には、事前に調べて頂き記事は参考程度とお考え下さい。
お断り:2000年当時の情報となります。当時とは異なる事が想定されますので訪れる際には、事前に調べて頂き記事は参考程度とお考え下さい。
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