今回は、世阿弥の謡曲“桜川”で有名な霊泉桜川と木花(きばな)神社の紹介です。
霊泉桜川と木花神社へは、JR日南線 木花駅より1.5キロ。宮崎空港から国道220(ひむか神話街道)で7キロほど県道339号(塩鶴木崎線)桜川から北へ入った位置に鎮座しています。
霊泉桜川
奥にお社が祀ってありました。
霊泉桜川 案内
木花神社の御祭神佐久夜毘売が、三皇子を出産されたとき産湯に使われたと伝えられている霊泉です。 昔、この泉のほとりに貧しい夫婦がおり、その子供の「桜子」はそれを見かね自ら人買に身を売り、密かにこの地を離れました。母親はそれを嘆き悲しみ我が子を探し求めて旅に出たところ、三年後に常陸の国桜川で僧になった「桜子」にめぐり合い、母子ともにこの地に帰り幸福に暮らしたという伝説があります。「桜子」は佐久夜毘売に祈願して授かった申し子であったため、ご神霊のご加護によって我が子を探し当てることができたと伝えられています。そしてこの伝説は謡曲「桜川」となり、この地に語り伝えられ、世に知られています。(こちらより引用)
木花神社
祭祀:木花佐久夜毘売(コノハノサクヤヒメ)・日子番能邇邇芸命(ヒコホノニニギ )
由緒:「古事・日向三代」に登場する、邇邇芸命の行宮の跡と伝えられ、佐久夜毘売が火を放って無事出産した、三皇子生誕の産屋「無戸室」の跡、産湯に汲んだ泉と伝えられる「桜川」があり、又近くに、佐久夜毘売の生家があったと言われる吾田屋敷跡も残っている。
又、往時の神仏混淆にもとずいて「法満寺」があったが、明治五年廃寺になり、現在唯一「阿弥陀堂」が残っており、奉られている「阿弥陀如来像」は宮崎市指定有形文化財となっている。
創建ははっきりしないが、約四百年前の記録「飫肥紀行」の中に、「木花神社と法溝寺」のことが見られるので、それ以前の事だと思われる。
現在社殿に保存されている棟札には、1735年(亨保)、1755年(宝暦)、1778年(安永)、1808年(文化)等のものが有り、飫肥藩主(伊東氏)の武運長久、百穀成就、万民豊楽、子孫繁栄等の願文が記されている。
明冶22年、村制設置の際・隈野村、加江田村、鏡洲村が合併して「木花村」となったのは、この地に伝わる「木花佐久夜毘売」の神話・伝説・伝承によるものと思われる。更には、戦没者(日清、日露、から大東亜戦争に至る263柱)慰霊碑があり木花の聖域とされている。(以上はこちらより引用)
無戸室(うつむろ)の跡
「無戸室」は、夫の天孫ニニギノミコトから“一夜の契(ちぎり)で身ごもった”ことを疑われた妻コノハナサクヤヒメが、自分の身の潔白を証明するために、戸の無い産屋『無戸室(うつむろ)』に入り、炎の中で3人の皇子を生んだと伝えられているものです。コノハナサクヤヒメは、赤々と燃え盛る炎の中で長男ホデリノミコト(火照命:海佐知毗古)、炎の勢いが小さくなった時に二男ホスセリノミコト(火須勢理命)、炎が小さく遠のいていく時に三男ホオリノミコト(火遠理命:山佐知毗古)の三人の皇子を無事出産しました。
ホオリノミコトは日向三代の一人で初代神武天皇の祖父にあたり、アマツヒダカヒコホホホデミノミコト(天津日高彦火火出見命)やヒコホホデミノミコト(彦火火出見命)ともいわれ、妻のトヨタマヒメ(豊玉姫命)とともに宮崎市の青島神社の御祭神となっています。(こちらより引用)
境内社 稲荷大明神
(撮影:2004年2月)
お断り:2004年当時の情報となります。当時とは異なる事が想定されますので訪れる際には、事前に調べて頂き記事は参考程度とお考え下さい。
お断り:2004年当時の情報となります。当時とは異なる事が想定されますので訪れる際には、事前に調べて頂き記事は参考程度とお考え下さい。
【マップ】
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます