
──ずっと球技をやってきて、でも職業としては選手と小学校の先生と、どちらかになりたいと思っていて、結局選手をやめ、こうして先生になった。
白状すると……、私はつい最近まで球技なんてたいしてすごいとは思っていなかった。そして、先生がほんとうにすごい球技の選手だったということもまったく理解していなかった。というのも、私には運動の体験が少なく、球技ができるということがどの程度のことなのか、さっぱりイメージできなかったからだ。子どもから先生は球技がウルトラうまいんだという話を聞いても、たいして印象は変わらなかった。人間の脳には客観的データよりも自分の体験を優先して信じる傾向が根深いことは、近年ではほぼ通説になっているようである。
いや、この人はただもんじゃないぞ、と気づいたのは、実は年が明けてからのことになる。6年生の教室は3階にあり、面談を終えた私は教員室へ戻る先生と一緒に階段を下り始めたのだが、私の足があまりに遅いので、どうしても間が合わなくなってしまい、先に降りてコピーしてくる、と先生が言い始めるまでに、さほど時間はかからなかった。するすると束縛から離れたその後ろ姿は、どうやって降りているのか、まるで重力さえないかのよう……。おそらく1階ぶんを5歩ぐらいで跳んでいたんじゃないだろうか。時折額に迫る天井をぶらぶらと避けながら、小学校仕様の幅の薄い段差を気にするでもなく、そのふわっと宙に浮いた黒いセーターはたちどころに階下へ消えてしまった。
しかし結局はその卓越したたたずまいが、教室や校舎に古いままのイメージを持っている親たちには、違和感を起こさせるのかもしれない。レーサーが一般道では超安全運転であるように──これも以前体験して私は非常に驚いて、運転感さえ変わったほどなのだが──先生はふだん、非常に穏やかでむしろスローな印象さえ与える。おし隠しているのでもない、封じているのでもない。
そういえば卒業文集に寄せられた先生の似顔絵に「足」と書いて黒いズボンの絵を描いた子がいて、夫と話題になった。「もしかして、先生が背が高いので、いつも足ばかり見てたんじゃ……」というわけだ(笑)。
ことほど左様に、先生が球技の選手であったことは、いろんなところに関わってくる。子ども達は先生を見上げなければならないし、サッカー選手に見かけるような真ん中分けの髪型は「先生らしくない」かもしれない。「なんだかいつも黒い服を着ている」ことや、場合によってはただ背が高いというだけで「球技ができないのでつまらなそうにしている」という印象すら与えるかもしれない。それらのひとつひとつには、確かに幾分か、先生らしさが刻まれているだろう。だが、受け取り方はいろいろだと言うしかない。
けれども私は、先生が球技の選手だったことを、すごくよかったと思う。子どもたちにとってラッキーだったと思う。球技の選手だから、背が高いのは当たり前だ。そして球技を極めたことは、先生の全人格に広く、深く関わっている。考えても見てほしい、それはひとつの人生であって、受け取るほうの感覚で、そのどれかはいいけど、どれかはいやだというわけにはいかない。ヒビキたちの担任の先生は、球技がすっごくうまいんだ──私はそれをかけがえのないことだったと思う。
そう思いませんか?

↑こちらは、ヒビキが卒業文集に描いた先生の似顔絵。
※関連記事はこちら↓
[ まごころについて考えながら。卒業式2013 関連記事目次 ]
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます