大原や豚の味噌鍋一人酒
大原やひとり燗酒方丈記
大原の里を訪れるのは今回が初めてです。高校時代、古典は苦手な科目でしたが、なぜか「大原」の名前は心に惹かれていました。
今回の京のもみじ見たさの旅立ちは衝動的でしたが、大原の里の民宿を選んだのは潜在的な憧れがあったのかな~、と思います。
鞍馬寺を出る頃は日も暮れ始め、宿に着いた時は結構寒かったのを覚えています。泊り客は少なく、湯につかり、一人部屋でひとり名物・豚の味噌鍋をつつきつつ、燗の酒をちびりチビリと味わっていました。無音の時空で、鴨長明さんの時代に思いを馳せました。方丈記を持っていきましたので、拾い読みもしました。その一節;
五十の春をむかへて、家をいで世をそむけり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官祿あらず、何につけてか執をとゞめむ。むなしく大原山の雲にふして、またいくそばくの春秋をかへぬる・・・
一夜明け、朝食前に寂光院まで散策しました。
長明の棲みし大原霜の朝
大原は紅葉に霜の取り合せ
手袋がほしや大原朝もみじ
いや~、寒かったです。もみじの時期に霜が降りるているとは、私にとっては予期せぬ出来事でした。そして、賑やかな京都の町から目と鼻の先でしかない大原の風景が全くの素朴な山里なのには驚き、感動もしました。長明さんの時代は人も家ももっともっとまばらだったのでしょうか?ここに5年ほど住まわれ、60歳の時に大原より南の伏見区の日野山に三丈の庵を作り、62歳でご逝去とのこと。
ヨーロッパの諺に「最後に笑う者が最もよく笑う(He laughs best who laughs last)」というのがあります。私は人生をこのように終えられたらと思っていますが、長明さんの場合はどうだったのでしょうか・・・
建礼門院の祈り寂光もみじ路
長明も聴くや囀り冬もみじ
寂光院はそのホームページによれば、天台宗の尼寺で推古2(594)年に聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために建立されたとのことです。その後、時を経て1185年、この年の4月、源平の壇ノ浦の戦いで入水したものの助けられた建礼門院(注)は、同年9月に入寺し真如覚比丘尼と称し、平家一門と我が子安徳天皇の菩提を弔いながら、終生を過ごしました。
注:平清盛息女、高倉天皇中宮、安徳天皇母
寂光院に着いたのは開門時間前でしたので中には入れませんでした。寂光院の歴史が念頭にもあったからか、周りから見た当院は質素で落ち着きのある優しいお寺のように思えました。「寂光」とは「静寂な涅槃の境地から発する智慧の光」とのこと(広辞苑)。石を敷きしめ朝露に濡れた寂光院への小路は味わい深いものがありました。波乱万丈の人生を送った建礼門院その人と、彼女の祈りのことを思いながら寒い大原の冬もみじをしばし眺めていました。
寂光院の生け垣越しから小鳥の囀りが聞こえてきました。朝の静寂の中、冬もみじをバックに小鳥たちが歌い、お喋りをし、ちょんチョンと跳び回り、時折私と目が合う(と思う)場面に逢えたのはラッキーでした。人間界との関係を疎遠にした長明さんは小鳥たちの会話が分かり、ひょっとするとお話しができたかもしれません。
このような訳で、宿に戻った時は身体が冷え切り、部屋の暖房とご飯とお味噌汁の暖かさが一番のご馳走であったことを今でも覚えています。