神仏仲良く推移
日本は基本的に神道で神の国です。後から仏教が伝来し、歴史的には若干仏教信者同士の争いもありましたが、神仏仲良く推移しています。
日常生活においても神道、仏教、キリスト教、イスラム教などごちゃごちゃで、神前・仏前・教会での結婚式、七五三祝いも神社や寺院だったり、葬儀も同様です。
宗教団体に参加したことも
highdy は宗教そのものは否定も肯定もしません。無神論者でもなければ、いかなる宗教の信奉者でもありません。唯心論者でもなければ唯物論者でもありません。
highdy も若い頃(26歳頃まで)、ある宗教(創価学会やイスラム教ではない)団体に参加したことがあります。脱会する直前には約50名が所属する市内青年部の部長として部員をまとめていました。
入会当時は未知の新しい考え方に触れ感動したものですが、しばらく身を置いていると、言葉は不適当ですが・・・、自分なりの「悟り」を開きました。
日本は基本的に神道で神の国です。後から仏教が伝来し、歴史的には若干仏教信者同士の争いもありましたが、神仏仲良く推移しています。
日常生活においても神道、仏教、キリスト教、イスラム教などごちゃごちゃで、神前・仏前・教会での結婚式、七五三祝いも神社や寺院だったり、葬儀も同様です。
宗教団体に参加したことも
highdy は宗教そのものは否定も肯定もしません。無神論者でもなければ、いかなる宗教の信奉者でもありません。唯心論者でもなければ唯物論者でもありません。
highdy も若い頃(26歳頃まで)、ある宗教(創価学会やイスラム教ではない)団体に参加したことがあります。脱会する直前には約50名が所属する市内青年部の部長として部員をまとめていました。
入会当時は未知の新しい考え方に触れ感動したものですが、しばらく身を置いていると、言葉は不適当ですが・・・、自分なりの「悟り」を開きました。
その「悟り」とは、人として生きる意味・目的、人生の生き甲斐、幸せとは何か、自分の心の持ち方、人・自然との共存、そのためにはどう生きればよいか、等々 highdy なりに感じとったからです。そして単に神・仏に逃げるだけの説明はできないことを悟りました。
こんな活動より自分にはもっとやらなきゃいけないことがあり、その方が世のため、他人(ひと)のため、自分のためにもなると考え脱会しました。
これまで、highdy の哲学で随所に発表していますが、「教える人(キリスト、マホメット、釈迦など)が違うだけで、すべての宗教は相争うべきものではなく、宇宙の真理は一つしかないものである」、つまり、「放送局から流れる電波は一つでも、それを受信するラジオの種類によりそれぞれ微妙に音色が異なる」のと似ています。
宗教について考えてみると、次のような7不思議にまとまります。
宗教の7不思議(?)
1.異なる殆どの宗教には、それぞれの神話若しくは神話的信仰がある。
すべての宗教は一種の哲学的思想であり、それを信仰すれば宗教となります。
highdy の考えは、「神や仏は信じる人にのみ存在する」、「信じないから生きていけないということはない」、従い、宗教は決して強制されるものではなく、信教の自由があって当然と思います。信教の自由 = 思想・言論の自由があって然るべきです。
2.ある特定の(同じ宗教を信じる)人々を平和に導くことができる。
神・仏を信じる人は、自らを幸せに思い、不幸があれば試練だと解釈されています。周囲の人々にはそう思えなくても、単に本人がそう思っているだけです。
3.特定以外の人はその宗教(の神・仏)が完全に信じきれない。
旧約聖書『創世記』に登場する最初の人間であるアダムとイブ(エヴァ)や
仏教における輪廻転生思想も発展させたり、否定されたり諸説存在しますが、一般の正常な人には簡単には信じきれないものです。
4.古代から異なる宗教間または同じ宗教でも異なる宗派間での争いが絶えない。
多くの宗教は、「宇宙の真理」について、自分たちだけが正しいもので他は邪道だと決めつけています。そのため、多くの宗派が産まれ、純粋な領土拡大戦争もありますが、世界の多くの争いは宗教戦争です。
5.宗教は科学で説明できないものは、すべて神・仏による奇跡や神話で都合よく片づけようとする。
古代より、宗教から哲学へ、哲学から科学へと発展してきていますが、宗教では説明できないことが多過ぎます。これまで宗教で説明できなかったことが、次々に科学で解明されており、物理学や医学でも科学で制御可能になりつつあります。
6.すべての宗教では神・仏を信じれば、「幸せになる、救われる」と信仰を強制する。
宗教では説明できないものが多い反面、哲学は自然現象や現実を観察して「思想の世界」として発展し、科学はあらゆるそれらの事象を常に裏付けて「事実の世界」として発展しています。宗教は、神・仏による偶然の奇跡や過去の神話であるため、その思想が発展することはありません。
いまや、その偶然の奇跡も、エンパワメント(患者の積極的な治癒努力)、アポトーシス&ネクローシス(細胞の死に方)、自然治癒力(ヒトの体がもつ自己防衛機能、自己再生機能など)の解明により、奇跡とは言えなくなりつつあります。
7.いかなる宗教も所詮は営利団体であり、ボランティア的な活動に見せつつ自派の拡大に必死になっている。
事実、その(普及活動)ためには資金が必要であり、信者を集めないと宗派として成り立たないため、各宗教とも最終的には会費を集める工夫をしています。
一時世間を驚かせた「オウム真理教」(現在はその亜流派が複数存在)でも、パソコン関連など身近なところで資金稼ぎをしています。
結果、あらゆる精神的弱者を誘い込むことを得意としています。でも、精神的な安定を得て自らの努力で立ち直った人は、「宗教で救われた」と信じておられるので敢えて部外者が批判することもないでしょう。
無意識で・・・というところです。
私の家は代々『浄土真宗』ですが、母は子供の頃に洗礼を受け、キリスト教を信仰していました。その母も自分はキリストを信じていても他の宗教や仏事を否定することなく、ごく自然にしていましたね。
その母からキリストの教えのようなものも
私たち子供には自然に伝わり、善悪や正義感、利他、他人への愛情などを大切にすることが知らず知らず育まれた面があると思います。
私にとって「宗教」は永遠に難しく解決できないようなことですがhighdyさんの仰る
『信教の自由 = 思想・言論の自由があって然るべきです。』というのはまさにそのとおりだと思います。
こんな私ですが、宇宙や自然界の海や山、森林、気候、などには「畏敬の念」をもって考えることもあります。
納得しました! って、これだけでは分かりませんね。
私は、どなたでも何度か言葉を交わすと”感じるもの”があり、私が「素晴らしい人」「好きな性格の人」「付き合って欲しい人」と思うような方には必ずそれがあります。実は、fumiel-shima さんにはそれを感じていました。本文のように、現在は宗教家でも何でもありませんが、人生経験から他人を読み取る力は多少あると信じています。
「それ」はその方から発する「心の支え」となるような「思想の柱」的なものです。
私といつも社会や周辺に対して思っていることなどで同じような考えをお持ちなのです。誰かのことばを借りれば「オーラ」です。
「悟り」的な状態になってからは、世間でいう奇跡的な出来事が普通に思えるようになりました。その力は公に表すことはありませんが、思ったまま行動することで、いろんな精神的に病んでいる方を助けてきました。これこそ宗教で救うのではなく、私の知識を組み合わせて無資格の「偽医師」としてアドバイスをしていました。(いまもそうですが・・・)