ユア・ハイハート、自らの神聖さと共に。

心や魂のこと。生きる勇気と希望。
世界はいつも儚く光に溢れてる。誰もが強くて優しい。No worries, 大丈夫。

ジャッジせず。

2017-05-07 23:55:45 | 癒し
今朝、とある方のブログかSNS記事を読んでいたとき、

「惜しみなくあふれ出す」のところを、何と「憎しみがあふれ出す」に読み違いしていました!!

普通にさらっとそう読み進めていたんですね。自分でも驚きを禁じ得ません(汗)

それに気付いた瞬間、胸の部分に、確かに「憎しみ」の存在を感じました。その存在は、黒い(とても濃いグレー)雲のような形状でしたが、うつむいていて哀しそうでした。憎しみなんて、イヤな言葉だし、イヤなものですが、私はずっと抱えてきたのだなと思いました。でも、ちょっと安心した私もいます。一見「良くない」とものだって、持っていて悪いなんてこと何も無いですよね。今までも、私の原動力の一つとして作用していのではないでしょうか。

+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・

そんな出来事もあってか、私自身を、何のジャッジ(先入観)も持たず、俯瞰してみました。
今日は、そのときのレポートを少し書いてみます。

目の前に置いた私は、最初は、灰色の作りかけの彫刻みたいで、意思も感情もない様子にしか見えませんでした。「ただ、私」なら、どんな感じだろうと、ぼやーと、目の前に置いた自分を傍観していたのですが、形も曖昧で、何の形容しようがない様子を目の前にすることが苦痛でした。何による苦痛だったのかは分からなかったのですが...。

今思い返しながら、曖昧でぼやっとしている状態が、私は苦痛なんだと思いました。確かに、何でもさっさと結論付けたいタチです。でも、それも、自分で加工した幻想なんですけどね。

次に目の前に現れたのは、色はやはり灰色で、さらに濃く、そしてまだら。こぶ状のものが全身にあって、猫背で、頭部が異常に大きい。髪は真っ黒で、堅そうな髪質を感じました。長さは肩くらいで、短い白髪が飛び出ている。。これが、恐らくは、私が私の中に持ってる私像。今もこうやって書きながら、形状(私が見たものだけ)をつなげてます。

その次は、子供です。戦中?はだしで草履、短い丈のボロボロの着物、泥が付いた傷もある両腕を伸ばして「下さい」と、何かを貰おうとしてました。で、それを貰ったあと、誰かに渡していました。でも、自分の分はちゃんと残してた。人を嫌ったり、見捨てたり、私にとっては強力なタブーにも遠慮していなかったですね。心を痛めてないとは、また別みたいでしたけど、勇気というか、潔いなと思いました。物資や、人脈みたいなものも、自分のところで止めてないところが、風がすーっと渡ってるみたいで気持ち良かったです。
そして、私自身の傍観は、ここで自然に止めました。

必要に応じて、何か変化が起こってくるかなと思います。
「苦痛」とか「気持ち良かった」とか、いろいろと感じれて良かったと思いました。


今日も最後まで読んで下さりありがとうございました。

今日も、皆さん一人ひとりが優しく包まれる一日でありますように。


真実?

2017-01-13 13:19:38 | 癒し
「真実の自分で生きる」「私の本質を生きる」。。。言葉は綺麗ですが、分かったような、分からないような・・・。こういった言葉の解釈は、経験を重ねる度に語彙とその選択肢が豊富になり、深みも増すものだと思います。よって、今現在の私の解釈で言うと。

(最近「真実」という単語、それを含んだセンテンスを頻繁にに目にするので、今日のトピックスにしてみました。)

記憶や習慣、蓄積したもの(常識や通念、古くからの集団意識)に捉われず、
良い悪い、正しい間違っているを裁かず、
自分の責任と自由で、行動や在りようを選択し続けること。。かと思いました。

探すものでは決してないですよね。何が真実なのか、どこに真実はあるのかと。
どちらかと言うと「真実=人間の能動的な様(さま)、無から有を創り出す機能の一つ」が近いのでしょうか。

探すものではなく、最初から一つの能力として、誰もが持っているもの。
人間としての、極めて素朴な在り様。
そして、不可能を可能にする起爆剤。

私は今まで、体力的には虚弱、精神的には現実逃避という月日を長く続けてきました。
それだから得られたものもありますし、そこに関係なく、私は見守られてきました。けれども、自分の記憶や解釈で創り出した、私が住まう世界に於いては、人は私を傷付けるもの、人間同士は争うもの、人は自分の都合を第一にするもの、が基準となっていて、自分の望みを叶えようとするなら、その状況を勝ち抜くことが手段なのだという無意識上の前提が強く大きくありました。だから、私も人を傷付け、人と争い、私の都合を第一にしてきたと、認めるのはとても悲しいことですが、今、それが理解できます。私は被害者意識がとても強いので、反面、自分の非を認めることが嫌でした。「私は悪くない!」と(子供か!!ですよね)。ここに対峙するとき、屈辱感が押し寄せてきて。。あらためて、内省の習慣を持とうと思いました。内省。本当、これ大事です。

希望と勇気。自由と元気。

それが、自分の望む未来に、自分が行くべく未来に、遠慮なく、そして責任を負ってコミットする(宣誓する、覚悟する)力を育てるエレメント。そこから何か展開できれば。。と考えています。肩に力いれずに(^^)。


今日も最後までお読み下さり、ありがとうございました。
今日も、皆さん一人ひとりが、慈しまれる一日でありますように。


可能性 ~未来から動いていく~

2016-09-11 23:05:16 | 癒し
可能性というものを信じよう。

どういう形で姿を現すのか、それは、私次第、あなた次第・・・一人、一人次第。
いかようにもなるし、いかようにも出来るもの。

ゴール地点の情景をイメージしよう、出来るだけ臨場感を持って。
何度も、何度も、それを再現しよう。

そこは、現実的にも、すぐ隣の場所かもしれない。

今まで気付かなかった。それも、神聖な計画。
今、気付いた。それも、神聖な計画。
まだ、何も分からない。それも、神聖な計画。
かえって、混乱した。それも、神聖な計画。


それは時間がかかるものと決め付けて、目の前にあるチャンスにも立ち止まれない。
自分を過信して、基本を面倒くさがり、何も掴めずイライラする。

今、前へ、上へ、進んでいく。
その意志で、いいのだと思う。
過去は、これも神聖な目的に則り、振り返るタイミングが訪れる。

過去が癒されて、初めて歩き出せる勇気を持てるときもあるけれど、
過去を起点にしてはいけない。過去のいいなりになってはいけない。

そして、今、進もうとするのは、未来が動いたから。
未来に力が宿ったから。

そして、過去を癒したいと願い、その作業をしているのは、
例え気付いてなくても、
今、進もうとする衝動が、心の中、湧き出で始めたからかもしれないね。


未来の情景が浮かびますか?
鮮やかですか?温度は感じますか?
言い表せない高揚がありますか?

そこに心を開いて、今、やりたいと思うことをしよう。すべきことをしよう。
その未来と、なんの関係もないように思えることであっても。

信頼しよう。
次が見えてくるよ。いくら考えてもわからなかった、次が。
その積み重ね。
その積み重ねが、きっと何とも楽しく、とてつもなく、有り難い。


今日も最後まで読んで下さって、ありがとうございます。
今日も、皆さん一人ひとりの全てが、慈しまれる一日でありますように。


敗者でもいい。

2014-11-09 01:20:07 | 癒し
今までも、何度か書いてきた「~でもいい」「~していい」ですが、

このタイトルについては、「勝ち負け」のジャッジメントが外れたからなのか・・「敗者でもいい」と、ふと思えたので、それに関連することを書いておこうと思いました。

一時、この言葉は、本当によく使われました。
「勝ち組」「負け組」。

そう言えば、いつのまにか、殆ど見かけなくなりましたね。
私の解釈では、「殆ど見かけなくなった」というのは偶然でも何でもなく、もはや誰も、今までの概念や価値観に於ける「勝ち組」ではない、という意味が暗に含まれている結果だと思います。現実問題として、そうだと思います。

今、何を以て「勝ち組」と言えるのでしょうか(もう、この言葉を使うこと自体がズレていますが)。そして、このことが、何故「殆ど見かけなくなった」に結び付くのかと言うと、それは、誰も勝ち組でないのなら、誰も負け組ではないということになるからです。

今、この言葉自体が、使われるに適当な場所がないのです。そういう環境、時代は去ったのではないでしょうか。けれども、人間の記憶や、発した思念は残るのですね。これは、自分で気付いてなくても。記憶や思念により残った世界では、今も生きている言葉と、言い換えることもできるでしょう。


誰も勝ち組ではないし、負け組でもない。
今までこの2つの言葉から派生する思い込みにより、自分の立ち位置を自分で決めてしまい、固定させてしまったかもしれません。中には、そういう方もいらっしゃるのではないかと思います。しかし、負け組ではない、それ以上に、誰も勝ち組ではない。そのとき、勝ち組、負け組、勝つこと、敗けること、それらの境界線がスっと消えた感覚がしました。

そして、敗けるということの背景にある、怖れ、抵抗、怒り、妬み、葛藤・・・そういったものが、今まで考えていた「そういったもの」ではなくなり、その結果、「敗者でもいい、敗れてもいい」と受け入れられたのだと思います。何故なら、今まで拒絶していた「そういったもの」ではないのですから。


私自身は、ずっと「敗ける」ことに抵抗してきました。でも、ずっと近付きたくなかった、今までの私が思う「敗けている状態」に、私の自由がありました。

もしくは・・これからも、自由とは、そうやって、視点や考え方の立ち位置を(内に、外に、前から見る、横から見るなど)、しなやかに飛び跳ねられる心を言うのかもしれません。「そこにある」というのも一つの答えでしょうが、一旦見つかれば、それはいずれ、古びて固定してしまうものです。

よって、それは、答えであり、答えではないですね。いつも、そういうものだと思います。だから、しなやかに飛び跳ねて、次々と新しい視点の世界で遊べばいいのだと思います。自分を信頼し、飛び込んでいきましょう。

それは、いくつもの、いくつもの自分自身のフィルタを通した果ての世界です。信頼して、オープンになってみてもいいと思います。(Okを出す、許す、言い方は何でも。)



今日も最後まで読んで下さってありがとうございます。
今日も皆さんの全てが慈しまれる一日でありますように。