ユア・ハイハート、自らの神聖さと共に。

心や魂のこと。生きる勇気と希望。
世界はいつも儚く光に溢れてる。誰もが強くて優しい。No worries, 大丈夫。

3つの現れた言葉

2014-03-25 02:25:24 | 癒し
この数日、パタパタパタと類似の言葉に行き当たりました。本から、ネットから、そして遠い記憶から。
それは、次に書いた、3人のお方の言葉です。

「将来自分のかたわらにいる他の人間が不幸な状態にあるなら、いかなる人間も心安らかに幸せを享受してはならない」
ルドルフ・シュタイナー

「天使が人間の中に未来の理想を呼び起こそうとしている」として、
天使が、人間に生み出させようとする理想のヴィジョンを形成する際の原則のこと。

「悟りを求め、涅槃に行くより、悟りを求め、衆生を救わん」
「虚空が尽き、衆生が尽き、涅槃が尽きれば、我が願も尽きる」
空海(弘法大師)

虚空が尽きる宇宙の果てまで行っても、悩み苦しむ人が誰もいなくなり、涅槃さえ必要ないくらいに、すべての生きとし生けるものが幸せに過ごせるときが来るまで私の願いは成就しない、という意味であろうと思います。

「子どものころのあの「悲惨な日々」は神様の贈り物だったのだ。あの日からずっと、人に尽くすことで満足を得る人生へと導かれてきたのだ」
アンソニー・ロビンス


他利、他者愛、自己犠牲。
これらと、エゴイズムの成就は、自分では気が付かない領域で混合しがちです。

自分の幸せを求める心を捨てられるか。
他者の幸せを願い、そのために努力することが、そっくりそのまま自分の幸せ。
それが、そっくりそのまま、限りなく、無限に、自分を包む陽だまりに、自分に差し伸べられる手となる。

言ってみれば、既に幸せなのだから求めない、という内容に置き換えらえるのかもしれません。

そして、これが、ルドルフ・シュタイナーが言う、「人間の未来の理想」なのかと思いました。
(ちなみにシュタイナーは、2000年を過ぎたあたりから、天使は、人間に未来の理想を呼び起こさせようと実力行使に移って行くと、1910年前後に言明していました。)


これらは「人を幸せにするには、まず自分が幸せでないと」という考えとは逆なんですよね。
でも、自分が傷だらけでは、実際は難しいところです。出来ないと言っても良いし、場合により、大変に危険です。
しかし、それでも尚、エゴイズムに呑みこまれない決心。

3つとも、とても厳しい内容の言葉ですが、出逢えて今とてもスッキリしています。
いくつもの壁にも、これからも同じく、出逢って行くのでしょうが。



今日も最後まで読んで下さって、本当にありがとうございました。

今日も皆さん一人一人が慈しまれ、尊ばれる一日でありますように。


地図

2014-03-04 00:21:24 | 癒し
ここで書くことも、私の意味付けでしかないのですが。。

ちなみに「意味付け」「解釈」。NLP諸原則では「地図」と呼びならわします。
「地図は土地ではない」です。

意味付け、解釈、意見はすべて土地(事実、真実)ではない、ということです。すべては地図。
例えば、「これは赤いセーター」。赤色なのも、セーターなのも、過去の記憶から生成され判断されたものです。地図です。そうるすると真実とは?私もまだきちんと書けません。次の機会を頂ければと思いますm(_ _)m


+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・

「マイナス(ネガティブ)よりもプラス(ポジティブ)をイメージしよう」
これも良く言われることですが、この文章をどういう構造で捉えているかに大きく違ってくるかと思います。

・マイナスを消し去ってプラスだけにしよう。
・マイナスの中に存在する(これも諸原則の一つ、必ず存在します)、高次の(健全、建設的で美しい)意図を視野に加えよう、認めよう、受け容れよう。

マイナスがなければプラスも存在しないのですから、その理論においても、後者の方がより効果的だと思います。


又、「後ろを振り返らない」「これからは未来だけを見詰めよう」
これは、言ってみれば、「それは、もう過去」で、今現在の自分に影響を及ぼすものではありません≒それは昇華して(消化して)、自分の一部になりました、という内容で私は解釈します。そして、このように「終わった」と思えることが、カルマの清算の終了なのか?とも感じます。(いやいや、カルマはそんな単純なものではない、という思いも強いです。)

よって、がむしゃらに、力づくで、前だけを見ようとするのは、力尽きでしまうことも多いかもしれません。


とにかく、心理的な変化は一大労働です。何かに引っ張られて、どこか知らないところへ連れ去られそうなクライシス(危機感)も感じています。私だけかな。



今日も、最後までお読み下さって本当にありがとうございます。

今日も、皆さん一人ひとりの希望の灯りが暖かい一日でありますように。


死線を越える?

2013-12-02 18:37:04 | 癒し
「診断メーカー」という、簡易占いというか、気軽に、気分転換でき、楽しめるサイトがあります。診断結果を、クリック一つで、そのままtwitterやfacebook、その他のSNS上にアップもできるのも楽しいです。

私の場合は、フォローさんがアップされて、タイムラインに流れてくる診断結果を見て、「へぇこれ面白そう」というのをちょいちょいしているだけなのですが、今日なってみたのが、

あなたの今年の【漢字】(2文字)

joyceでやってみましたら「後悔」
本名では「死線」

いずれにしても、何だかおどろしい結果でした(笑)

でも、この診断。中々一笑に伏せられないです。
たまに、ドキ!!っとするくらい核心を付いた答えが返ってくるときがあるのです。


昨日、ふと思ったことがありました。

「自己否定をこんなに続けていたら、そのうち、消えていなくなっちゃうかも」。

消えるのは、自己否定ではなく、私自身のことです。言葉の上でも、自己否定とは、自分の存在を否定しているという意味ですから、自分の存在を消してしまおうとする気持ちに行き着いても不思議ではないと思います。そんな思いがあったことに突然気付いたのです。「何!?この自己否定は」と。

そう・・・それは、文字通り、「死線」を超えたのかもしれません。


思い返せば、私は、自分のしたいことを、自分の思いのままに、したことがなかったと思います。
私の中に大きく占めたいたのは、常に他者に対する責任と義務。それは当然引き受けねばならなかったものもあれば、自分が創り出した幻想もあります。これは、自分で納得して引き受けたものもあれば、逃げるための格好の理由にしたものもある、と言い換えることができるのではないかと思います。

ただ「したことがなかった」とまで、今、そう言い切るのであれば、
それは、逃げに逃げて、言い訳に言い訳を重ねてきた結果に過ぎません。

それが「何!?この自己否定」という形(言葉で、思いで)で、表に現れたのだと思います。


ただ、ここで申し上げておきたいのは、自分への言い訳ではなく、

「どの行動にも、高次で神聖な意図がある」ということです。

この意図の面と、行動の面とで裏表。これで、一枚の紙の形状です。
(一枚の紙は裏と表面があり、それで一枚の紙です。)

これはNLP(神経言語プログラミング)の諸前提をベースとして、現在、私が学習しているプロフェッショナル・コミュニケーターの諸原則の一つでもあります。

私の、この場合ですと、
言い訳を重ね、逃げ続けたこと(行動)にも肯定的な意味(意図)がある、ということです。
言い訳を重ね、逃げ続けることによって満たしたかった意図があると考えるのです。肯定的、美しい、建設的、健全、最善な意図がそこにはあり、どんな行動も、それを満たすが故の手段であったと。

それが何なのかは、今までの私の従来の考え方や価値観を元に探ろうとしても、答えには出会えないものと予想しています。それは、逃げること、言い訳を作ることは「悪」だと、自分の中では完全にそう固定されているからです。

また、バリバリと、一つ、バリアを引き剥がすときがきたのかもしれません。
又、そもそも、それは本当に言い訳だったのか、それは本当に逃げだったのか、それらは果たして、そういう風に解釈されるものであったのか。それさえも、バリアの外に出れば、捉え方は全く違ってくるものなのです。

そして、そのあたりの変化は、想定した範囲内、過去の記憶内で理解できるものではないと断言します。そこを出た、そこを含めた全体への信頼により、「何だか分らないけど」「ぼんやりのまま」、進んでいくものだと私個人的には思っています。だから、心理セラピーやカウンセリングには、ワークのメニューを入れて、身体の感覚を取ることはとても有効です。(身体の感覚は、想定内や過去の記憶に頼りません。信頼していきましょう。またワークは日常的にするものGoodです。)


まだまだ、自分の価値観のバリアの中で正誤や善悪を判じているな・・
それも、それを絶対的な真実として分かったように自己満足しているな・・と思った今日でした。

そして、

「死線を越える」

それこそが、高次の意図だったのかもしれないと思いながら。



今日も最後まで読んで下さって有難うございました。

今日も皆さん一人ひとりの愉しく健やかな一日でありますように。


鏡の世界 ~人は鏡~

2013-08-07 16:07:59 | 癒し
評価は受け入れるけれど追われない。がっかりされる恐怖に向かう。

こんなことすると悲しませる「だろう」、がっかりさせる「だろう」。
それは、そう自分「が」思っている世界。
本当のところは分らない。

悲しませたくない、がっかりさせたくない。
それは、私の場合、私が、もう、悲しみたくなかったからだった。
私が、もう、がっかりしたくなかったからだった。

でも、悲しむことだって、沢山起こるよ。
これからも、悲しもう。

がっかりすることにも、沢山出会うよ。
これからも、がっかりしよう。


+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・

「生きるとは」「人生とは」「命とは」・・どう解釈するのは人それぞれで、揺るぎない一つの正解しかない、なんてことは絶対にないですよね。又、使命や価値など、色々と拡充して思考を巡らせるときもあるかと思います。でも、生きることは、それだけでもう一大事業です。それだけでGreat workです。

私の場合ですが、これからの自分の学びの一つとして、「自分を哀れまず、手に入れることと愛することを混同せず」・・そう思ったとき、何て一大事業なんだろう!!それ以外のことまで絶対できっこない!!とうわ~~~と思ったんです。そう、うわ~~~と(苦笑)内からの叫びのように。

本当に・・生きることは、それがもう一大事業。

でも、一大事業=苦難の道のり、では決してありません。そういう時が、そういう面があるのも確かでしょうが。。

人生は、一大事業であり、苦難や忍耐があり、喜びと幸福でしかない時もあると思います。必ず、清濁が併わされ、陰陽が和合している世界です。濁りを呑むことで、平和を感じることもあります。いえ、摂理としてはそういうものなのかもしれません。清を求め続けて、濁を排除し続けて、結果、ようやく清に身を浸せたのは、濁を呑んだからだった・・という。摩訶不思議なものだと思います。

人生という一大事業にがぶりよつで取り組んで下さい。
あなた自身が咲いて下さい。愛でて、愛でられて下さい。



今日も最後まで読んで下さって、本当に有難うございました。

今日も皆さんの健やかで楽しい一日でありますように。


自分の価値

2013-07-14 23:34:18 | 癒し
皆さんは、自分の価値というものを考えてみたことがありますか?

自分には価値があるのだろうか。
答えがYesなら、それは何故?
答えがNoなら、それも何故?

又は、自分を好きですか?

そして、同じように問うことは出来ますか?
それは何故?と。


+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・

自分に価値があると思うか?
自分が好きか?

Yesと答えられることの素晴らしさ・・・私が自己肯定感が極めて低い人間だったため(もしかしたら今も低いかもしれません)、その素晴らしさは身を以て理解することろです。それは、今はその素晴らしさを知っていると言うより・・反対に、それが分らずとても苦しかったので、その苦しさの対極として、素晴らしさを想像することが出来る・・と言った方が正しいように思います。

又、自分は自分でしかなく、そこに価値を付けることや、自分で自分を好き、嫌いとするものでもない。早い話が、そんなこと考えたこともなかった訳です。だから困っていました。「自分を好きになることよ」「自分の価値に気付いてないんだね」と言われる度に。


+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・

心の問題は、一人ひとり、個別のものだと思います。
それぞれの事例が、間違いなく例外です。

例えば私の場合は、自分に不調和が起きているときは、苦しいし辛い。心が重くなるだけでなく、身体にも出ます。筋肉の痛みや胸のしめつけ、発熱。そして、自分の殻に閉じこもりやすく、ついつい塞ぎ込んでしまう。でも、それらの症状がふっと楽になる瞬間があって、そのときの心の変遷のようなものや、楽になった瞬間のきっかけを一つひとつ経験することで、心の仕組みを学び続けているところがあります。

そして、私が私に自分の価値や、自分を好きかを問うたとき、
そこには条件がありました。厳密に言えば、自己肯定がほとんど出来ていない人間ですから、自分を好きか嫌いかの以前に、「ちゃんとしていないと」という思いが非常に強かったのですね。よって、自分のことは、決して好きではなかった。

「自分が好きな自分になりたい」そういう思いも非常に強かったとも思います。
けれども、自分で自分を好きになることに、条件を設けていたようです。

○○ができること。
××であること。
▲▲を達成できたら。
☆☆になれたら。

・・・と。

このように、自分以外の所やものに、自分の価値を形作る重要任務を負わせるとキリがありません。

キリがないとは、○○も××も、▲▲も☆☆も全部クリアしても、次のものを探してしまいます。わざわざ探してしまうといっても良いかもしれません。別の見方をすれば、飽くない向上心とも言えなくもないですが。。外にあるもので自分自身を埋める、この状態ではじめて自分には価値があって、自分のことが好きだということなら、クリアしてもクリアしても、必ず外のものを求める心の仕組みになってしまっても不思議ではありません。

私はこれが出来る、あれを達成できた・・などことは、自信を生んでくれるでしょう。
でも、それが価値ではないと私は思いますし、それがあるから、ようやく自分を好きになれるということでもないと思います。一方で、条件がない、そのままの私で価値がある。だから何もしなくていい、ということは怠惰であり傲慢だと思います。


こうして書いてみると、無条件に自分が好きだと言える心理状態は、理屈では語れないものかもしれないですね。
何が出来なくても・・何を持っていなくても・・何を達成できなくても。

しかし、条件がない=自分自身の価値を自分以外に負ってないだけ、自分を見失ったり、自分は欠けいてるという幻想に追いかけられることはないかもしれません。


自分を好きか?自分は価値あるものか?
とてもシンプルでベーシックな問題かもしれませんが、気が付いたときには、自分に問いかけてみるのも良いと思います。渦中の問題も、そこに起因している可能性が、もしかしたらあるかもしれません。



今日も最後まで読んで下さって、本当にありがとうございました。

今日も皆さん一人ひとりが慈しまれる一日でありますように。