剣について1から続きです。随分間が開いてしまって申し訳ございませんでした m(_ _)m
九段下駅から靖国神社への道のりは、地図で確認し目算した距離よりもずっと短く感じました。
以前より、この駅から日本武道館へ緩やかな上り坂を歩く距離が好きでした。靖国神社へは、それを通り過ぎて間もなくの靖国通りの対面。気が付けば大きな鳥居が目の前に現れていました。
鳥居をくぐり、本殿へと続く道を歩き出したときでした。
銀色に輝く剣が、次から次へと空から降ってくるヴィジョンが目の前に広がり、私ぼんやりと「これが本物だったら痛いんだろうなぁ。。。」と、何とも間抜けな考えを浮かべながら進んで行きました。
どうして(ヴィジョンとは言え)剣が切っ先を下にして降り続けているのに、「間抜けな考え」で「ぼんやりと」だったのか、それには理由があったのです。
とにかくエネルギーがまろやかでした。
丸く、鈍く、素朴な・・・と、その時に感じていたのは「じゃがいも」と「まんじゅう」でした(笑)
見るからに磨き上げられ光を反射する剣なのに、斬るというイメージは全く浮かばず、そこに存在していたのは、ただまろやかで優しい、何か丸いものでした。
そして本殿に向かい歩き続ける私は、そのアンバランスさに対して「さしてどうとは思わなかった」というのが正直なところでした。「ふぅーん・・」で、思考も体感も止まっていたと思います。
そしてもう一つ鳥居の前で頭を垂れ、本殿の前、少し順番を待ち(この日も、多くの方々が祈っていらっしゃいました)、この日は特に福島原発で作業されている方々へのご加護をお祈り致しました。先日本格稼動にまでこぎ着けた汚染水浄化システムにしても、事故収束を目指すための日々の注水作業においても、現在の状態を保っているのはこの方々のお陰です。
「正しく伝えて欲しい」
靖国神社に参拝するきっかけとなったのがこの言葉でした。
それは神風特攻隊の方々から頂いたものでした。
福島原発で作業されている皆様も命をかけて作業して下さっています。「決死隊」という言葉がメディアを駆け巡った時期もありましたが、私もそう思います。命をかけて、私達を護って下さっています。神風特攻隊の方々も、祖国を、国民を、家族を、愛する人々を護るために片道燃料だけを積み飛び立って行かれました。しかし、その時に彼らが日本の情勢を正しく知らされていたのかどうか。私達がこの福島原発事故について、隠さず、偽りなく、後世に歴史を引き継ぐことができるかどうか。
さて本殿の前で祈りを捧げさせて頂いた後、この日は隣接の「遊就館」へ向かいました。
そして入場してすぐに、本殿に続く参道で見た「剣」と、丸くひたすらに優しかったエネルギーの意味を私に知らしめてくれる展示があったのです。
「矛(ほこ)とりて守れ宮人九重の 御階(みはし)の桜 風そよぐなり」
幕末の危難に際して詠まれた孝明天皇の御歌とされています。
そして別の場所では、次のことが大きく書かれてありました。
「かつて我が国の武人は、国難のときに天皇より節刀を賜った。近代の戦場にあっても軍人は腰に刀を帯びた。刀は神代のときより日本人の心を映し、武人の魂を宿す正義と平和の象徴であった。」
・・・・「刀は神代のときより日本人の心を映し」
私が見たものは、何故だか「刀」より「剣」と言い表したいものでした。その形状は、西洋の「サーベル(剣)」と日本刀を足して2で割ったような、どちらとも見えるものではありましたが。いずれにせよ、日本に於ける剣(刀)は「日本人の心を映す」ものであり「正義と平和の象徴」であるが故に斬るエネルギーではない。だからまろやかで丸い、そして優しさを感じたのだとその大きな布に書かれた文字を読み終えたとき確信したのでした。
とは言え、剣はやはり、突き、斬るものです。
相手を傷付け、殺し、それで自らの身を護るものでもあります。
この日からほどなくして、もう一つのメッセージがありました。
「怒りを認めよ」そして「怒りを捨てよ」と。
突き、斬るものである以上、怒りを持ったまま使えばそれは凶器でしかない。
それは決して日本人の心を映し、正義と平和の象徴たりはしない。
よって自分が持つ怒りを認め、消化(昇華)し、手に持つ剣が正義と平和の象徴たるようになれよ・・・ということだと解釈致しました。
祖国を思い、愛する人々を護る。
このための正義と平和の象徴は人によって様々であり、またそれぞれであって然るべきでしょう。
ここでは剣(刀)のモチーフですが、その象徴が何であれ、又それがいかな世の役に立つものであっても、怒りと共にあれば凶器とまではならなくても、やはり他者を、外部を攻撃するものになってしまいかねません。
そして、本来の力を完全に発揮できないのだと思います。
剣(刀)などの象徴も、使う私たち人間も。
恐らく、第二次世界大戦後、全てをもぎ取られた怒りが国の成長と、何よりも人々が生きる上での原動力だったであろう戦後約70年間。それがJapan Miracleを生み、東洋の小さな島国が経済大国となりました。
そして今一度この国難に、国土から1県が奪われ、健康被害がこれから目に見えてくるであろうこの現在に、もう一度Japan Miracleを起こすには連鎖された怒りを認めよ、許せよ、捨てよ、ということをあの日教えて頂いたのではないだろうか・・・と思った震災から約2ヶ月を過ぎた頃のことでした。
今日も最後まで読んで下さって、本当にありがとうございました☆
今日も皆さん一人ひとりの掛け替えのない思いが、大切な誰かに届く一日でありますように。
九段下駅から靖国神社への道のりは、地図で確認し目算した距離よりもずっと短く感じました。
以前より、この駅から日本武道館へ緩やかな上り坂を歩く距離が好きでした。靖国神社へは、それを通り過ぎて間もなくの靖国通りの対面。気が付けば大きな鳥居が目の前に現れていました。
鳥居をくぐり、本殿へと続く道を歩き出したときでした。
銀色に輝く剣が、次から次へと空から降ってくるヴィジョンが目の前に広がり、私ぼんやりと「これが本物だったら痛いんだろうなぁ。。。」と、何とも間抜けな考えを浮かべながら進んで行きました。
どうして(ヴィジョンとは言え)剣が切っ先を下にして降り続けているのに、「間抜けな考え」で「ぼんやりと」だったのか、それには理由があったのです。
とにかくエネルギーがまろやかでした。
丸く、鈍く、素朴な・・・と、その時に感じていたのは「じゃがいも」と「まんじゅう」でした(笑)
見るからに磨き上げられ光を反射する剣なのに、斬るというイメージは全く浮かばず、そこに存在していたのは、ただまろやかで優しい、何か丸いものでした。
そして本殿に向かい歩き続ける私は、そのアンバランスさに対して「さしてどうとは思わなかった」というのが正直なところでした。「ふぅーん・・」で、思考も体感も止まっていたと思います。
そしてもう一つ鳥居の前で頭を垂れ、本殿の前、少し順番を待ち(この日も、多くの方々が祈っていらっしゃいました)、この日は特に福島原発で作業されている方々へのご加護をお祈り致しました。先日本格稼動にまでこぎ着けた汚染水浄化システムにしても、事故収束を目指すための日々の注水作業においても、現在の状態を保っているのはこの方々のお陰です。
「正しく伝えて欲しい」
靖国神社に参拝するきっかけとなったのがこの言葉でした。
それは神風特攻隊の方々から頂いたものでした。
福島原発で作業されている皆様も命をかけて作業して下さっています。「決死隊」という言葉がメディアを駆け巡った時期もありましたが、私もそう思います。命をかけて、私達を護って下さっています。神風特攻隊の方々も、祖国を、国民を、家族を、愛する人々を護るために片道燃料だけを積み飛び立って行かれました。しかし、その時に彼らが日本の情勢を正しく知らされていたのかどうか。私達がこの福島原発事故について、隠さず、偽りなく、後世に歴史を引き継ぐことができるかどうか。
さて本殿の前で祈りを捧げさせて頂いた後、この日は隣接の「遊就館」へ向かいました。
そして入場してすぐに、本殿に続く参道で見た「剣」と、丸くひたすらに優しかったエネルギーの意味を私に知らしめてくれる展示があったのです。
「矛(ほこ)とりて守れ宮人九重の 御階(みはし)の桜 風そよぐなり」
幕末の危難に際して詠まれた孝明天皇の御歌とされています。
そして別の場所では、次のことが大きく書かれてありました。
「かつて我が国の武人は、国難のときに天皇より節刀を賜った。近代の戦場にあっても軍人は腰に刀を帯びた。刀は神代のときより日本人の心を映し、武人の魂を宿す正義と平和の象徴であった。」
・・・・「刀は神代のときより日本人の心を映し」
私が見たものは、何故だか「刀」より「剣」と言い表したいものでした。その形状は、西洋の「サーベル(剣)」と日本刀を足して2で割ったような、どちらとも見えるものではありましたが。いずれにせよ、日本に於ける剣(刀)は「日本人の心を映す」ものであり「正義と平和の象徴」であるが故に斬るエネルギーではない。だからまろやかで丸い、そして優しさを感じたのだとその大きな布に書かれた文字を読み終えたとき確信したのでした。
とは言え、剣はやはり、突き、斬るものです。
相手を傷付け、殺し、それで自らの身を護るものでもあります。
この日からほどなくして、もう一つのメッセージがありました。
「怒りを認めよ」そして「怒りを捨てよ」と。
突き、斬るものである以上、怒りを持ったまま使えばそれは凶器でしかない。
それは決して日本人の心を映し、正義と平和の象徴たりはしない。
よって自分が持つ怒りを認め、消化(昇華)し、手に持つ剣が正義と平和の象徴たるようになれよ・・・ということだと解釈致しました。
祖国を思い、愛する人々を護る。
このための正義と平和の象徴は人によって様々であり、またそれぞれであって然るべきでしょう。
ここでは剣(刀)のモチーフですが、その象徴が何であれ、又それがいかな世の役に立つものであっても、怒りと共にあれば凶器とまではならなくても、やはり他者を、外部を攻撃するものになってしまいかねません。
そして、本来の力を完全に発揮できないのだと思います。
剣(刀)などの象徴も、使う私たち人間も。
恐らく、第二次世界大戦後、全てをもぎ取られた怒りが国の成長と、何よりも人々が生きる上での原動力だったであろう戦後約70年間。それがJapan Miracleを生み、東洋の小さな島国が経済大国となりました。
そして今一度この国難に、国土から1県が奪われ、健康被害がこれから目に見えてくるであろうこの現在に、もう一度Japan Miracleを起こすには連鎖された怒りを認めよ、許せよ、捨てよ、ということをあの日教えて頂いたのではないだろうか・・・と思った震災から約2ヶ月を過ぎた頃のことでした。
今日も最後まで読んで下さって、本当にありがとうございました☆
今日も皆さん一人ひとりの掛け替えのない思いが、大切な誰かに届く一日でありますように。