ユア・ハイハート、自らの神聖さと共に。

心や魂のこと。生きる勇気と希望。
世界はいつも儚く光に溢れてる。誰もが強くて優しい。No worries, 大丈夫。

9月17日(水)のつぶやき

2014-09-18 03:57:35 | twitterまとめ2014年

全員が揃って、月曜日から金曜日、9時18時を何十年と続けるのが前提..あるべき姿である労働環境はしんどいし、返って効率悪かないだろうか。そこに従うエネルギ-消耗が、どれだけ生産性を下げているんだろう。とにかく、多様性がない社会は息苦しい。


空気、水、土といった生命の土台そのものが今も穢され続けたままですが、現代日本では、国民の約半数以上が都市部に暮らし、自然と人間生活の、その根本土台への現実感が薄れています。私たちの身体は、食べ物でしか成り立ちません。その食べ物は自然から頂いています。一番大切なことを肝に銘じたい。

joyce☆ナチュラルセラピストさんがリツイート | RT

向き合えば、観察すれば、逃げなければ、そこに必ず喜びがあり、美しさを見るだろう。さて、自分はどうするのか、という問いや思考も、また喜びであり、美しさを感じるのだろう。過去を癒すという後追い作業だけでなく、未来を創るという自由と責任。自然に往き来したい。


身体の悪いところも、心の痛さも、様々なことを教えてくれる。


自分はこれでいい、という感覚は、全体性の中の、一部のピースにぴたりとはまる感じかもしれない。でも、そこもきっと、永住地ではないんと違うかな。


「信じ損」がイヤで、今まで信じようとしなかった。



9月16日(火)のつぶやき

2014-09-17 03:53:34 | twitterまとめ2014年

自分のとても嫌で忘れ去りたい部分を(自分ではそう思っている部分)を、他者は「素敵だ」と心を傾けようとするするかもしれない。そのとき、感じるのはイライラ感や、怖さや、めんど臭さかも。


今朝起きがけは「今年は残暑がないな-」という気配だったのに、しっかり暑い。。水分摂って、夏の疲れを循環、排泄していきましょう。


浄化。正当性や言い訳、想念でぶくぶく太った私から、動いていくこと。


あせることはない。進歩は喜びだし、時間は味方だ。(運命の法則)

joyce☆ナチュラルセラピストさんがリツイート | RT

缶コ-ヒーは、習慣になると、余り身体には良くない。それが無糖でも。


太陽は智恵であり、道。月は意志であり、道。



鏡と後ろの正面

2014-09-17 01:37:42 | 日記
鏡は、自分を映し出してくれます。
自分を「何者なのか」と解らせてくれるものです。

自分で自分は見えません。けれども、鏡は見せてくれます。


自分では見えない自分を、見せてくれるのが鏡なら、しかも、鏡に映るのは逆写しとなる事実があります。
であれば、自分の「相対具象」を見せてくれるのが鏡、という解釈も許されないでしょうか。

そして、繰り返しますが、それは「自分では見えないもの」「自分では解らないもの」ですが、自分の相対(≒一部)です。それの存在があって、初めて自分です。


又、自分で自分は見えないと書きましたが、どうしても見えない部位の一つが背中。
そこには、相対が宿るのではないかと思いました。籠目歌の「後ろの正面」です。そして、それは鏡でようやく映されます。(実際には、合わせ鏡でやっと見れる部位ですね。)

「後ろの正面」に宿るものには、鏡が必要なのです。その存在は鏡を持ちます。
そして、鏡は、神器です。

相対・・背中・・後ろの正面に宿るものは、バランスを取ってくれます。
バランスが故に、偏りが著しければ、大きな反作用を生みます。それは、痛い思いをさせることにより、気付きを与えてくれる働きでもあります。

一方で、私たちが自発的に自律し(自分に責任を持ち、自分を満たし)、貢献と愛を厭わないのなら、その相対をもたらします。外へ心を開き、自分を差し出していることにより、「満たされている」ことを増幅させる相対を得るのです。

まさに「奇跡を起こす存在」と解釈してもいいのではなかろうかと思います。


この存在が、後ろの正面に宿り、鏡を持ち(アトリビュート)
時に大いなる師で、時に自分のことは省りみない慈しみで、
時に冷徹なまでの憎まれ役で、決して見捨てない働きのスピリット。


自分は、自分では解らない自分も含めて、自分。
そして、自然や宇宙と同じ。バランスを取り、一つの調和美として生きている。






今日も最後まで読んで下さって、本当にありがとうございました。

今日も、皆さんの掛け替えのない勇気が、大切な人に届く一日でありますように。



9月15日(月)のつぶやき

2014-09-16 03:47:43 | twitterまとめ2014年

自分を信じられるまでは・・顕在意識と無意識含めて・・セラピーやカウンセリングは、人により苦痛かもしれない。がんばって自分を創り上げてきて、それが苦しくなった人は特に。一度分解し、洗って、再び組み立てる作業だと思うから。しかも、そのプロセスは、顕在意識上で認識する以外が多い。


人間は適切に限界を張れる生物だろうと思う。そう信じてみる。


ノア、大国主命、十字架。私の心のフィルタを通って感じるのは、共通して、苦悩。


美しいものは、悲憤の映したもの。ギリギリ抑えているものの現れ。それだけではないが、それも確かである。最近の空を見ていてそう思う。 


これからほんまにカネもなく着の身着のままで避難してくる方や重篤な健康被害が出て避難してくる方が増えてくると思う。西日本も正念場だと思う。自分の身を削って分かち合うのか、自分の生活水準がどうのこうの言って厄介払いしたり差別するのか?それによって自分達の未来も変わってくる。

joyce☆ナチュラルセラピストさんがリツイート | RT

「一度この道を歩き出したら、お前は一生歩んでいくか、消滅するかのどちらかである。残りの人生を喜んでこの道に捧げるのか決断しなければならない。もはや、自分のための人生などないものと思え。おまえという人間は死に、創造主と創造の世界に仕えるための架け橋となるのだ。」『ヴィジョン』より。


Setという単語は、あるべきところに置く、という意味があるそうです。Sun setは、太陽は西に沈むのがあるべき姿。沈まなければ昇らない。Set freeは、自由が本来の姿。ありのままが。


私の場合、もう付け足してはいけない。浄化、浄化、浄化。



力ずくではなく

2014-09-15 20:05:33 | 自己紹介

私は、「生きる」ということと、「自分を大切にする」が、まったく結びつかなくて・・・と言うより、結びつかないものなのだと100%思っていました。

「楽しんで」
「もっと、気を楽に」
「自分を大切にしなきゃ」

という言葉をもらうたび、首を傾げるばかりでした。頭の中はクエスチョンマークばかりでした。

早い話が、「生きる」って、楽しむものじゃないでしょ?
と、ずっと思ってきたのです。

「生きる」とは、苦しい道を行くもの。苦悩や困難を克服して、より自分の質を高めていくこと。。
でも、これが一番近いかもしれません。

自分だけが楽しく過ごし、幸せでいようとは思わない。
(でも、一方で、死ぬほど渇望しているんですよ。自分が引き裂かれている状態?)

こう思うのは、私は「世の中には、又は身近には、沢山の苦しんでいる人がいる」という前提で、日常や社会、そして世界を見ていたのでしょう。
(実際、そう見てきた心当たりはあります。小学校低学年くらいに、決意にも近い思いで、そう胸の中でちゃんと言葉で残した思い出があります。)

そして、そういう人が沢山いるのに、自分だけ楽しんではいけない。その人達の痛みや苦しみを通り過ぎてしまうことなんて出来ない。そうした思いで、40代半ばまで生きてきました。


「世の中には、身近には、沢山の苦しんでいる人がいる」
でも、これは、私のことなんですよね。

私がそうだから、人々のその部分に反応したということです。私の中にそれがあるから、同じものに反応したとも言えます。そして、私は、私の手の届く人々の気持ちを満たそうと、上述した理由からも、ずっとそうしてきました。自分から進んで言いなりになることも多かったと思います。そして、喜ばれることもあったし、軽く扱われることもありました。

他者に自分を投影しているわけですから、他者を癒そうとして、幸せを感じて貰おうとして尽くします。他者に幸せを感じてもらって、自分も幸せになれるという構図も作っていました。見返りを求めることに近いのでしょうか・・これは、私があげるものを否定せず受け取って欲しいという、一種の恫喝です(苦笑)。私と同じ価値観でいて欲しいという。


その人が何を求めていて、何を思い、何を幸せを感じるかは、他者には分らないことです。分らない、は言い過ぎかもしれませんが、やはり断定などできません。又、近しい人と、遠い関係の人との違いはありません。皆、自分自身のフィルタを通してものを見て、信じて、創り上げた自分の世界の住人だからです。

自分と同じであって欲しいと、その人を呑みこもうとしたり、又は、暗に貸し借りを強要しているような、契約的とも言うのか・・・共依存的な関係が、リレイションシップ(人間関係、信頼の構築、愛し合うこと)なのだと、それが、私の物差しだったように思います。


私自身のことではありますが、かなり力ずく感で、何とかしようという思いがヒシヒトと感じます。
実際、そのための腕力はかなり強くなりました(笑いごとにしたくありませんが、(笑))。そして、お気づきかと思いますが、人は、やはり自分自身でいたいものです。同じものを求められて、「同じになって」ともたれかかられては、関係性は滞ります。それは、一つに、自分を変えられようとする恐怖や嫌悪感。一つは、その人(独自)の与えたいものを受け取ってもらえないとう失望感(大袈裟に表現すると、拒絶感)があると思います。


今日は、この「思い癖」をふと思い出したとき、「私は自分だけ幸せになろうなんて、心の底から思ってないよ」と言った私に、ただ、ぽろぽろと大粒の涙を流して話を聞いてくれた友人との、あの情景が甦りました。本当にありがとう。今思うのは、ベタですが、「自分だけ幸せになろうなんて思ってない」というのは、もう傷付きたくなかったから・・だったかもしれません。そうして遠ざけている方が、無意識下では、私は平安だったのでしょう。



今日も、最後まで読んで下さって本当にありがとうございました。
今日も、皆さんの全てが慈しまれる一日でありますように。