TENNIS COACH DIARY

ハンサム木全のたわごとです

ドイツの小さな女の子2(189)

2005-09-11 00:15:57 | tennis
 つづきです


女の子はどうやら私の脇にいた母親と待ち合わせをしていたようです。女の子が側のやって来ると、母親が女の子に訊ねました。「どうしていつものようにライン川のほとりの道を歩いてこなかったの?あっちの道は駐車場に面しているから危ないって、いつも言っているでしょう?」
 ライン川沿いの遊歩道は、並木を挟んで2本に分かれていました。片側(A)は川に面し、もう一方(B)は駐車場に面していました。
 ところで、例の幼い女の子は、すました顔で次のように答えたのです。
「だって、こっちの道(A)には、昨日の雨でできた水たまりがあるでしょう。今日はせっかく新しい靴を履いているのに、もし、間違って水たまりに入ってしまったら、新しい靴が駄目になっちゃうでしょう。だから私があっちの道(B)から来たのは、絶対論理的なのよ。ちゃんと車には気をつけて歩いてきたよ。」
 私は思わず振り向いて、女の子の顔を見ました。「論理的って、この子何言っているの?論理的っていう意味を知っているの?」という気持ちです。ディズニー映画が嫌い、と書いた筆者の気持ちと全く同じ嫌悪感を、私はその時その子に感じました。だいたいドイツに住んでからというもの、私はこの「論理的」にはいつも悩まされてきました。ドイツ語には四六時中「論理的」という言葉が登場します。年端のいかない小さな女の子までが「論理的」というのを聞いて、私は目眩さえ覚えたことを記憶しています。
 ところで、女の子のお母さんは、全くたじろぎませんでした。女の子の理屈を受け容れ、女の子が「論理的」に考えて行動したことをたいそうほめていました。本当のところ、女の子は、ライン川のほとりの道にいた老人が連れていた大きな犬が恐かったらしいのです。そのことはその後の親子の会話から私には理解できました。でも、女の子はそんなことはおくびにも出しません。私が気付くくらいですから、もちろん母親も女の子の屁理屈はお見通しだったでしょう。ところが母親は母親で、女の子が屁理屈をこねていることを追求しませんでした。それどころか、女の子が「論理的」に考え、自分の判断で行動したことを受容し、ほめていたのです。この些細な事件は、ドイツ人の「論理的」に対する嫌悪感と共に、私の中に長い間非常に印象的な形でくすぶっていました。


つづく
コメント (2)
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