私は日本に帰国し、大学での学生生活、企業勤務などを経験し、結婚しました。その後3人の子供に恵まれて、人並みに地域の主婦の付き合いや、幼稚園や学校での付き合いを経験しました。そこでの様々な場面で、感情的な対立や泣き落とし、ごり押しがまかり通っている日本社会の現実を目の当たりにし、私は困惑しました。そうした経験の中で改めて古い記憶の底から呼びおこして考えてみざるを得なくなったのが、私が高校生の時に経験したドイツの小さな女の子のことでした。
小さな女の子が「論理的」という言葉を口にした時、私はそのなまいきな口の利き方にだけ注意を払い、その背景にある事柄の大きさに目を向けませんでした。ところが改めて考えてみると、この事件は実に多くのことを示唆していることに、私は気付きました。まず第1に、女の子が「論理的」という抽象的な言葉を文法的に誤りなく使いこなしていた、という事実です。これは、「論理的」という言葉が日常的であることを意味しています。言語体験のまだまだ乏しい幼い子供が、ある言葉を完全に使いこなすためには、その言葉が日常的に使用されていなくてはなりません。つまり、この小さな女の子にとって、「論理的」という抽象概念は、完全な日常語だったのです。私は日本に帰国してから日本語の流暢なドイツ人の友人に、「論理的」というドイツ語は日本語であればどんな言葉に当たるか、と訊ねてみたことがあります。すると彼女は言いました。「『やっぱり』よ。そのくらい普通に使うわね。」私は頭を殴られたような気がしました。第2に、「論理的」という言葉と共に女の子が言った見え透いた屁理屈を、母親が黙って受容したという事実です。私だったらどうしたでしょう。きっと、「論理的なんて、なまいきな言葉を使うもんじゃありません!あなた犬が恐くて、こっちの道(A)を通って来なかったことくらいちゃんと分かってるのよ!嘘をつくもんじゃありません。それは屁理屈でしょう!」と決めつけたことでしょう。このような対応をしたら、子供はどうなるでしょう。きっと二度と「論理的」という言葉は使わないように注意するでしょうし、理屈をこねるよりは黙って「知らない。何となく」と答えた方が得だということを学習するでしょう。第3に、女の子の屁理屈を、母親が受容するばかりでなく、女の子が一人で考え、行動したことをほめて認めたという事実です。このような大人の受容と励ましを受け、子供は論理的に考えて行動することを学ぶのです。
論理的思考とコミュニケーション・スキルとは、大変密接な関係にあります。論理的思考はコミュニケーション・スキルの鍵の働きをしますし、一方、コミュニケーション・スキルを通して、論理的思考力を深めることができるからです。子供の時代にせっかく芽生えた論理的思考力を摘み取ってしまっては、人はコミュニケーション・スキルをうまく身につけることはできません。周囲の大人が論理的思考の重要性を認識したら、次は子供の「屁理屈」を受容し、励ましながら、子供が正しく論理的に思考できるように導いていきたいものです。
論理的に考える力を引き出す-親子でできるコミュニケーション・スキルのトレーニング-
著者:三森ゆりか 出版:一声社
屁理屈をいう子供はきらわれる…ていう考え方が日本にはありますね、うーん、勉強になります。(木全)
きのう、コートそうじをしてくださったみなさん、ありがとうございました。