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◎ガリレオ・ガリレイ (5)金星の満ち欠け

2016-04-26 23:15:24 | 天文学
ガリレオ・ガリレイ (5)金星の満ち欠け

金星の満ち欠け

・1610年12月にガリレオの弟子で友人のベネデット・カステリ神父が、もしコペルニクス説(太陽中心説)が真実であるならば月の満ち欠けと同じように金星の満ち欠けが観測できるはずだとガリレオに書き送った

・12月11日、ガリレオは新しい発見に関するアナグラム(アルファベットの文字を入れ替えた一種の暗号で、発見の先取権を確保するために用いられた)をケプラーに伝えるよう、プラハに書き送った
 ケプラーはそれを解読できなかった
 ガリレオは1611年の1月1日にプラハ駐在のトスカナ大使に、このアナグラムの解答を送った
 「愛の母(金星)はキュンティア(月)の姿をまねる」であった

 最初、観測した金星は小さな丸であった。形は丸いまま日ごとに大きくなっていったが、角度が太陽から遠く離れたときから、太陽の反対側である東から欠け始め、数日後には半球になった。さらに欠け続け三日月形になった。欠けていくにつれて大きくなっていった

ガリレオは、金星の満ち欠けは、コペルニクス説(太陽中心説)を支持する明確な証拠だとみなした

 トスカナ大使に「それ(金星)は太陽のまわりをまわっているにちがいありません。水星や他の惑星すべてもそうです」と説明した

●しかし、金星の満ち欠けから、金星が太陽のまわりを回転していることは言えるが、地球が太陽のまわりを回転しているか否かについては何も言えない


○ローマ訪問

・ガリレオはローマを訪問し、望遠鏡による観測を実演し、観測結果の正しさを実証しようとした

 トスカナ大公は馬車を提供してくれて、ガリレオは1611年3月23日にフィレンツェを立ち、毎夜木星の衛星の観測を行いながら3月29日にローマに到着した

 ガリレオが到着する以前に、イエズス会のローマ学院の教授 クリストファ・クラヴィウスは性能のよい望遠鏡を手に入れ、ほかのイエズス会士とともにガリレオの観測を確認していた
 しかし、クラヴィウスはアリストテレスの説をまだ信じていたので、月面に凹凸があり平坦でないことは受け入れられなかった
 イエズス会のほかの数学者は月面に凹凸があることを認めた

 ガリレオはローマではトスカナ大使館に滞在し、6月3日にフィレンツェに戻った
 ローマ滞在中に、晩餐会などの機会に望遠鏡をのぞかせた

リンチェイ学士院

・貴族フェデリコ・チェシは、1603年に3人の友人とともに、科学アカデミー、リンチェイ学士院を設立した
 「リンチェイ」とは視力がいいことで知られるオオヤマネコのことである

テレスコピウム

・当時リンチェイ会員全員がローマにいたから、1611年4月14日、チェシは客を招いてガリレオのために晩餐会を開いた
 この会合において、ガリレオの装置に「テレスコピウム」(望遠鏡)という言葉が初めて用いられた

 望遠鏡は英語では「テレスコープ」(telescope)、イタリア語で「テレスコーピオ」(telescopio)と呼ぶが、その語源はラテン語の「テレスコピウム」(telescopium)である
 「テレスコピウム」は「遠くを見るもの」を意味する
 「テレスコピウム」はギリシ語の「テレ(遠く)」と「スコペイン(見る)」に語源がある

 晩餐会の場で、ギリシア人学者ヨアネス・デメシアノスが望遠鏡にふさわしい名前として「テレスコピウム」というラテン語を発案した
 チェシが、以後その言葉を用いることを提案し、ガリレオもそれを用いるようになった
 それまで、一般に「望遠鏡」に定まった表現はなかった

○ガリレオはローマ滞在中にリンチェイ学士院の会員となった
 しばしば署名の肩書に「リンチェイ学士院会員ガリレオ・ガリレイ」と書いていた

○チェシは1630年に亡くなるが、それまでガリレオの友人、後援者として次の2冊の本「太陽黒点論(太陽黒点とその諸現象の沿革および証明)」(1613年3月)と「偽金鑑識官」(1623年)の刊行の費用を負担した

●1611年春の時点では、大体の天文学者はガリレオの主張を認めていたが、哲学者たちはガリレオの主張を認めることはできなかった
 当時の自然学体系は地球が静止していることを前提にしていたため、地球の運動を認めると基礎から自然学を築き直す必要にせまられることになる

 ガリレオはさらには、太陽中心説は聖書の記述に反すると指摘され神学論争にまきこまれていくことになる