◎宝塚歌劇 10 歴史 8 戦後の宝塚
★アーニー・パイル劇場
・昭和20年(1945年)8月15日、太平洋戦争が終結し、宝塚大劇場と東京宝塚劇場は進駐軍によって接収された
○昭和20年12月24日、東京宝塚劇場は進駐軍のための劇場としてアーニー・パイル劇場と改称された
アーニー・パイルは太平洋戦争に参加したアメリカの新聞記者の名前である
アーニー・パイルは戦死したが、彼は、兵士の行動、生活、信念などあらゆる角度から書いて、彼の記事はアメリカで好評を博した
・接収が解除されて、東宝の手に戻ったのは昭和30年1月27日である
★劇場が再開
○宝塚大劇場が再開されたのは、昭和21年4月22日である
生徒たちは進駐軍慰問公演へ出かけたり、署名をもって進駐軍の司令部に陳情もして、昭和21年2月3日に接収解除の通知が届いた
再開が4月になったのは、兵庫県下に発疹チフスが流行し、進駐軍の命令で3週間延期させられたからである(「宝塚歌劇今昔物語」)
・再開の公演は雪組公演で「カルメン」とレビュー「春のをどり〈愛の夢〉」
・「春のをどり」の公演の映像は、アメリカの戦略爆撃調査団撮影班の手によって、カラーフィルムにおさめられている(昭和21年5月6日、7日に数シーンが撮影された)
戦略爆撃調査団の任務は、爆撃地の状況の調査記録、なかでも広島・長崎の原爆の効果についての調査であった(「宝塚というユートピア」)
○「スターのみならず、歌手も踊り手も、端役にいたるまでのすべてが、彼等の仕事に対して純真な熱と、楽しみを持ってゐることです。出演者の中に漂ふあの「喜び」は、合衆国にも見られないものであります。彼等が舞台に見出す歓喜そのものが、観客に伝はって来るのです。」(キャロライン・ライター「宝塚の印象」「歌劇」1948年9月号)(「宝塚というユートピア」)
○手塚治虫は、少年時代から宝塚歌劇に親しみ、初恋の女性は宝塚の生徒だったという
漫画「リボンの騎士」は宝塚歌劇の影響を受けた作品という
○東京公演は昭和22年4月1日、有楽町の日本劇場で再開した
○昭和23年8月1日、昭和13年10月に廃止された「星組」が復活した
○昭和25年から昭和29年まで、東京公演は帝国劇場で行われる
○昭和29年4月1日、宝塚歌劇40周年記念式典(宝塚大劇場)
○昭和30年3月25日、第1回ハワイ公演に出発
・戦後の海外公演はハワイ公演に始まる
○昭和31年3月22日、第2回ハワイ公演に出発
○昭和31年11月16日、梅田コマ・スタジアムが完成
コマはこま(独楽)を指し、回転・上下する円形舞台の劇場の創設を小林一三が欧米視察(昭和27年10月16日出発、映画界などの視察を行い、12月25日帰国)中に考えたという(「宝塚歌劇華麗なる100年」)
円形劇場のアイデアは、サンフランシスコで訪れた円形のレストランであった
真ん中に調理場があり、その周りをテーブルと椅子がとり囲み、客が調理を見ながら食事ができる
円形の舞台を中心にして、それを回しながら観客に見てもらうという発想である(「小林一三」)
・同心円になった大、中、小の円型舞台がそれぞれこまのように回転しながら7mの高さにまでせり上り、壁、天井、床板の下にまで仕組まれた32個のスピーカーを立体音がかけめぐるという仕掛け
・12月28日には新宿コマ・スタジアムの竣工式が行われた
12月29日、東宝劇場地下食堂で「東宝年忘れパーティー」が開かれ、小林一三がスピーチしたが、これが最後のスピーチとなった
●昭和31年12月28日、ニューヨークでの国連総会で日本の国連加盟が承認された
★昭和32年1月25日午後11時45分、小林一三が池田市の自邸「雅俗山荘」において急性心臓性喘息のため逝去(84歳)
1月25日、翌日の茶会のため午前中は自ら道具を用意していた
午後9時ころ、用便のあと心臓性喘息の発作が出た
主治医の池田回生病院の村上院長らがかけつけてカンフル注射を打ってくれた
11時45分、一三は静かにこの世を去った(「小林一三」)
・1月31日、宝塚大劇場で宝塚音楽学校葬として葬儀がいとなまれた
祭壇は白の菊、白いカーネーション、白のチューリップ、白ユリなど一三が好きだった白い花いっぱいで飾られた
葬儀はレビューの1場面のように進められたという
生徒全員が黒紋付きに緑の袴姿で大合唱してお送りした
・生前、一三が大劇場で観劇するさいの指定席は1階の「ろの23番」で、この座席を思い出の席として、公演初日だけはここを空席にし、小林一三の写真をおく
○昭和32年7月26日、戦後初のカナダ・アメリカ公演に出発
●昭和33年2月8日、東京有楽町の日劇ホールでウエスタンカーニバルが開かれた
山下敬二郎、平尾昌晃、ミッキーカーチスの「ロカビリー3人男」が登場
ロカビリーは、ロックンロールとヒルビリー(「田舎者」を意味する。カントリー&ウエスタンと同義語)を結びつけた音楽
この時期は、ロックンロール、カントリー&ウエスタン、リズム&ブルースが未分化のまま入り、ロカビリーと総称されていた
・ロカビリーが下火になると、外国のヒット曲を日本語に翻訳して歌う「翻訳ポップス」がポピュラー音楽の主流となる
平尾昌晃の「恋の片道切符(ニール・セダカ)」、中尾ミエの「可愛いベイビー(コニー・フランシス)」など
やがて、和製オリジナルポップスが主流となっていく(「音楽の本」三枝成彰 監修、三笠書房)
◎戦後の流行歌の出発点は、進駐軍とともに持ち込まれた「ジャズ」にあった
当時はポピュラーソングも含めて欧米の音楽全般がジャズと呼ばれた
しかし、日本にジャズがもたらされたのは戦後が最初ではなく、大正に入ったころで社交ダンスのダンス音楽として輸入された
1930年代になると、ダンス・ホールがお目見えし、バンド演奏も行われるなど第1次ジャズブームが起こった
戦時体制の進展とともに、1940年前後にはダンス・ホールは閉鎖され、「敵性音楽」としてジャズは聞くことも演奏することも禁止されるようになった
戦後に起こったジャズブームは2回目で、進駐軍の兵士の娯楽として、NHKがアメリカのポピュラー音楽を放送したことをきっかけとする
やがて日本人の心もとらえ、日本の流行歌にも大きな影響を及ぼす(「音楽の本」)
●昭和33年5月、NHKのTV受信契約数が100万を突破(翌34年には300万に達した)
●昭和33年12月23日、東京港区芝公園内に東京タワーが完成
○昭和39年5月9日、宝塚歌劇50周年記念式典(宝塚大劇場)
宝塚団、生徒約450人の「宝塚讃歌」の大合唱で式を閉じた
正装で舞台に整列しての「宝塚讃歌」の大斉唱はこのときに始まった
●昭和39年10月1日、東海道新幹線が開業
東京―大阪間を「ひかり」で4時間で結ぶ
●昭和39年10月10日、東京オリンピック(第18回オリンピック東京大会)開幕
昭和15年(1940年)第12回大会が東京で開催されることが決定されていたが、日中戦争の影響で中止となった(日本政府が開催権を返上した)
○昭和40年9月12日、第2回ヨーロッパ公演に出発
・パリのアルハンブラ劇場で2か月にわたり33回の公演を行った
・洋物のショー(レビュー「世界への招待」)を海外で初めて行った
これ以後、海外公演は洋物のショーと日本物のショーの2本立てになった(「宝塚100年の夢」)
★アーニー・パイル劇場
・昭和20年(1945年)8月15日、太平洋戦争が終結し、宝塚大劇場と東京宝塚劇場は進駐軍によって接収された
○昭和20年12月24日、東京宝塚劇場は進駐軍のための劇場としてアーニー・パイル劇場と改称された
アーニー・パイルは太平洋戦争に参加したアメリカの新聞記者の名前である
アーニー・パイルは戦死したが、彼は、兵士の行動、生活、信念などあらゆる角度から書いて、彼の記事はアメリカで好評を博した
・接収が解除されて、東宝の手に戻ったのは昭和30年1月27日である
★劇場が再開
○宝塚大劇場が再開されたのは、昭和21年4月22日である
生徒たちは進駐軍慰問公演へ出かけたり、署名をもって進駐軍の司令部に陳情もして、昭和21年2月3日に接収解除の通知が届いた
再開が4月になったのは、兵庫県下に発疹チフスが流行し、進駐軍の命令で3週間延期させられたからである(「宝塚歌劇今昔物語」)
・再開の公演は雪組公演で「カルメン」とレビュー「春のをどり〈愛の夢〉」
・「春のをどり」の公演の映像は、アメリカの戦略爆撃調査団撮影班の手によって、カラーフィルムにおさめられている(昭和21年5月6日、7日に数シーンが撮影された)
戦略爆撃調査団の任務は、爆撃地の状況の調査記録、なかでも広島・長崎の原爆の効果についての調査であった(「宝塚というユートピア」)
○「スターのみならず、歌手も踊り手も、端役にいたるまでのすべてが、彼等の仕事に対して純真な熱と、楽しみを持ってゐることです。出演者の中に漂ふあの「喜び」は、合衆国にも見られないものであります。彼等が舞台に見出す歓喜そのものが、観客に伝はって来るのです。」(キャロライン・ライター「宝塚の印象」「歌劇」1948年9月号)(「宝塚というユートピア」)
○手塚治虫は、少年時代から宝塚歌劇に親しみ、初恋の女性は宝塚の生徒だったという
漫画「リボンの騎士」は宝塚歌劇の影響を受けた作品という
○東京公演は昭和22年4月1日、有楽町の日本劇場で再開した
○昭和23年8月1日、昭和13年10月に廃止された「星組」が復活した
○昭和25年から昭和29年まで、東京公演は帝国劇場で行われる
○昭和29年4月1日、宝塚歌劇40周年記念式典(宝塚大劇場)
○昭和30年3月25日、第1回ハワイ公演に出発
・戦後の海外公演はハワイ公演に始まる
○昭和31年3月22日、第2回ハワイ公演に出発
○昭和31年11月16日、梅田コマ・スタジアムが完成
コマはこま(独楽)を指し、回転・上下する円形舞台の劇場の創設を小林一三が欧米視察(昭和27年10月16日出発、映画界などの視察を行い、12月25日帰国)中に考えたという(「宝塚歌劇華麗なる100年」)
円形劇場のアイデアは、サンフランシスコで訪れた円形のレストランであった
真ん中に調理場があり、その周りをテーブルと椅子がとり囲み、客が調理を見ながら食事ができる
円形の舞台を中心にして、それを回しながら観客に見てもらうという発想である(「小林一三」)
・同心円になった大、中、小の円型舞台がそれぞれこまのように回転しながら7mの高さにまでせり上り、壁、天井、床板の下にまで仕組まれた32個のスピーカーを立体音がかけめぐるという仕掛け
・12月28日には新宿コマ・スタジアムの竣工式が行われた
12月29日、東宝劇場地下食堂で「東宝年忘れパーティー」が開かれ、小林一三がスピーチしたが、これが最後のスピーチとなった
●昭和31年12月28日、ニューヨークでの国連総会で日本の国連加盟が承認された
★昭和32年1月25日午後11時45分、小林一三が池田市の自邸「雅俗山荘」において急性心臓性喘息のため逝去(84歳)
1月25日、翌日の茶会のため午前中は自ら道具を用意していた
午後9時ころ、用便のあと心臓性喘息の発作が出た
主治医の池田回生病院の村上院長らがかけつけてカンフル注射を打ってくれた
11時45分、一三は静かにこの世を去った(「小林一三」)
・1月31日、宝塚大劇場で宝塚音楽学校葬として葬儀がいとなまれた
祭壇は白の菊、白いカーネーション、白のチューリップ、白ユリなど一三が好きだった白い花いっぱいで飾られた
葬儀はレビューの1場面のように進められたという
生徒全員が黒紋付きに緑の袴姿で大合唱してお送りした
・生前、一三が大劇場で観劇するさいの指定席は1階の「ろの23番」で、この座席を思い出の席として、公演初日だけはここを空席にし、小林一三の写真をおく
○昭和32年7月26日、戦後初のカナダ・アメリカ公演に出発
●昭和33年2月8日、東京有楽町の日劇ホールでウエスタンカーニバルが開かれた
山下敬二郎、平尾昌晃、ミッキーカーチスの「ロカビリー3人男」が登場
ロカビリーは、ロックンロールとヒルビリー(「田舎者」を意味する。カントリー&ウエスタンと同義語)を結びつけた音楽
この時期は、ロックンロール、カントリー&ウエスタン、リズム&ブルースが未分化のまま入り、ロカビリーと総称されていた
・ロカビリーが下火になると、外国のヒット曲を日本語に翻訳して歌う「翻訳ポップス」がポピュラー音楽の主流となる
平尾昌晃の「恋の片道切符(ニール・セダカ)」、中尾ミエの「可愛いベイビー(コニー・フランシス)」など
やがて、和製オリジナルポップスが主流となっていく(「音楽の本」三枝成彰 監修、三笠書房)
◎戦後の流行歌の出発点は、進駐軍とともに持ち込まれた「ジャズ」にあった
当時はポピュラーソングも含めて欧米の音楽全般がジャズと呼ばれた
しかし、日本にジャズがもたらされたのは戦後が最初ではなく、大正に入ったころで社交ダンスのダンス音楽として輸入された
1930年代になると、ダンス・ホールがお目見えし、バンド演奏も行われるなど第1次ジャズブームが起こった
戦時体制の進展とともに、1940年前後にはダンス・ホールは閉鎖され、「敵性音楽」としてジャズは聞くことも演奏することも禁止されるようになった
戦後に起こったジャズブームは2回目で、進駐軍の兵士の娯楽として、NHKがアメリカのポピュラー音楽を放送したことをきっかけとする
やがて日本人の心もとらえ、日本の流行歌にも大きな影響を及ぼす(「音楽の本」)
●昭和33年5月、NHKのTV受信契約数が100万を突破(翌34年には300万に達した)
●昭和33年12月23日、東京港区芝公園内に東京タワーが完成
○昭和39年5月9日、宝塚歌劇50周年記念式典(宝塚大劇場)
宝塚団、生徒約450人の「宝塚讃歌」の大合唱で式を閉じた
正装で舞台に整列しての「宝塚讃歌」の大斉唱はこのときに始まった
●昭和39年10月1日、東海道新幹線が開業
東京―大阪間を「ひかり」で4時間で結ぶ
●昭和39年10月10日、東京オリンピック(第18回オリンピック東京大会)開幕
昭和15年(1940年)第12回大会が東京で開催されることが決定されていたが、日中戦争の影響で中止となった(日本政府が開催権を返上した)
○昭和40年9月12日、第2回ヨーロッパ公演に出発
・パリのアルハンブラ劇場で2か月にわたり33回の公演を行った
・洋物のショー(レビュー「世界への招待」)を海外で初めて行った
これ以後、海外公演は洋物のショーと日本物のショーの2本立てになった(「宝塚100年の夢」)