ある女の、コール&レスポンス?

日々、心の琴線にふれること、そして、それについて書きつける。音楽のように言えたらええのだけど…

地と花…幻聴と住友コレクションを観て

2016-04-18 | あかみゅー

この展覧会は、ポスターを見て、上村松園の絵が来る!地元で見られる日が来ようとは(胸熱)…ありがとう。ありがとう泉屋のお店。と思ったきり、最終日まで忘れていた。

当日、仕事中に…あれ、そういやと思い出し、閉館一時間半前にやっと観に行くことが出来る。

一階は子供が遊んでいて、ご年配の人がペッパーのようなロボットに身振り手振りで何かをしていたり。と、週末らしくいい感じにざわざわしていて、なんだかだいぶ、なじんできたなあと思いながら、二階の展示室に急ぐ。二階はうそのように静かだった。

住友コレクションだけを見るつもりが、別子銅山を撮り続けた人の写真展「幻聴」の一枚目に思わず目が行く。冬山がモノクローム写真だと、なおさら寒さが厳しく見える…。地味そうだから先に観たほうがよかろ。と入ることにする。

全てがモノクロームの写真で別子のお山の発電所、広瀬邸、四阪島の町の様子、坑道を支える…今はじわじわと朽ちつつある木など、明度でしか描かない潔さが初めて好ましく見える。立体感もカラーではないからこそ強く意識するものなんだろうか。と思いながら、一度展示室を出て、住友コレクションの展示室へ行く

風が強い日だったからか、柳の風に揺れる様子を描いた絵が、あ、風が吹いていると身に迫ってきて驚く。上村松園の「晩秋」は、画集で見るよりリアリティがある。こんな人が障子の破れを貼っていそうだ。と思う。

そうこうしているうちに、もう一度、あの写真たちが気になりだして「幻聴」の展示室へ行く。そうすると、今度は「住友コレクション」が観たくなってそちらへ…を数回くりかえす。

繰り返すうちに両方がごっちゃになっていくような気がしてくる。この文化の精華はこの地を這う仕事によってのものだし…

モノクロームの写真なのに色が見えてくるような錯覚に陥り、昔話に聞いた銅山の話を知っているからなのか、いま、静まり返っている写真の姿の現役の頃まで見た気までしてくる。…仕事帰りで疲れて想像が馳せすぎているのだろうと思う。

数回目に、この住友コレクションは戦局が厳しくなっていく昭和18年の事業だということに気が付く。…それにしては、武張った絵は、合戦の様子を描いたものと、山本五十六元帥を描いたもの、こちらにはこなかったあと一点しかないのが意外に思う。

舞妓さんが桜を仰ぎ愛でる絵に、時局柄舞妓を廃止するかもしれないから、哀惜の情をこめてといったような作者の言葉にそういうこと。と合点がいく。

上村松園の晩秋…なんでまた、障子の修繕を題材にしたんだろうと思っていたのが違うメッセージを帯びて見えてくる。おくれ毛を一筋描いてあることに気づきくらくらする。

総じて、上方らしい優美さがあるように感じられ、谷崎潤一郎の「細雪」がたしか戦時中発禁になったという逸話を思い出す。

当時には、今の解釈ではわからない独特の気風のようなものがあったのかもしれないな。と思いながら、

どちらかというと、私はこちら側。と最後に「幻聴」を見て帰った。

行けてよかった。

 

 

 

追記・「幻聴」の写真家さん、高校時代、年に200回銅山峰登山してたってどういうこと!?