昨日はブログの更新を久しぶりにサボってしまいました。
しがないサラリーマンは会社でいろいろありまして。。。頭に血が上るといいますか、ボクなりに表現すると「思考回路が土砂崩れで遮断された状態。何とか通れる思考回路での折り返し運転中」です。ボクはよくポ-カーフェイスと揶揄される方です?が、表面はそうだとしても、内面の実際は“イラチ”で負けず嫌い・・・
おかんむりのボクには、まともな文章は書けるはずもなく、途中まで書きかけた昨日のブログは下書きのまま眠っています。ただ、昨日のボクもボクの一面であり、そんな自分もいることは肯定するしかありません。開通したら、新しい思考回路から振り返ってみたいと思います。
さて、今日は「文化の日」。祝日ですが、家族を残して会社でした・・・
「文化の日」を、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で調べてみると、
国民の祝日に関する法律(祝日法)では「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨としている。
のだそうです。
理屈っぽいボクは、ここで「文化をすすめる」ってどんな意味?と思ってしまいます。
そもそも「文化」についての自分のなかの定義が曖昧なんですよね。
人間の生活様式の全体。人類がみずからの手で築き上げてきた有形・無形の成果の総体。それぞれの民族・地域・社会に固有の文化があり、学習によって伝習されるとともに、相互の交流によって発展してきた。
分かったような?分からないような?どうもしっくりこないんですね。
再度、『ウィキペディア(Wikipedia)』で「文化」を調べてみると、いろいろ書いてありまして、なかなか興味深いですね。
少しだけ引用します。
社会の成熟度が増していくにつれて、文化的事柄の体系と分岐は、繊細さと精緻さの度合いを増していく。たとえば、茶道や華道のしきたり、決まりの細かさを見るとよいだろう。こうした様式の洗練は、文化の成熟の目安でもある。タイラー(注:イギリスの人類学者エドワード・タイラー)の指摘に従えば、茶道や華道が単独で文化を構成すると言うよりも、茶道が発達する社会的背景、慣習、宗教などの複合的全体が文化であると定義付けることができる。
人それぞれ、茶道や華道もそれ単独で「文化」であると理解されている人もいるでしょうけど、個人的には上記定義のほうがスッキリしました。
社会的背景や趣向などの関係が複雑になりすぎて、今ここにいる自分が“複合的全体”をとらえることはボクには無理です。おそらくほとんどの人がボクらが今いる“複合的全体”を「文化」として、分類してひと括りにすることは難しいと思いますけど。。。
自らの知識や経験で少しだけ俯瞰して、後世からボクらが生きるこの時代の「文化」をどのように括って、どのように評価するのかと考えるのもなかなか面白いものだと思いました。機会があればブログにも書きたいのですが、今のボクには考える力も表現する力もまだありませんね・・・
みなさん、ハローです。ホディです。
たまたま読み返していた『日本人とユダヤ人』。高校生のとき?の読書感想文の課題図書、サラリーマンになってなぜか手に取った二度目に続いて、三度目になると思います。三度読んでもあまり覚えていないのが実情だったりして、新たな気づきも含めていろいろ考えながら読みました。ただ三つ子の魂・・・じゃないですけど、ボクの思考の根本の一部にはこの本の考え方が混ざっていることは間違いないと改めて感じています。
三度とも・・・いつも読みながら思うのは、ヒトは人種によって産まれもって考え方や趣向が違うのか?という疑問。
コトバや表情は後天的であるけれども、本質的な考え方や趣向は生得的なものなのか?・・・それとも、オオカミ少女ではないけれど、基本は同じで育てられた環境で変わってくるのでしょうか?
そんな疑問をいつも感じていますが、例によっていつも答えはありません。。。
また、最近、「国益」というコトバをよく聞きます。そんなときに思う「国」って何を指すのだろうか?という疑問と、同じような?違うような?「日本人」って何を指すのだろうか?という疑問。イヌの種類が、柴犬とチワワで区別されているように、ヒトの種類も見た目で区別できるのか?チワワのなかでも日本育ちと、アメリカ育ちでは違うのか?
「どうする?アイ○ル?」
日本人はこうだとか、ユダヤ人はこうだとか、そんな知識や思い込みもボクには必要ないと思いますけど、日本人的考え方は**だとか、アメリカ人的考え方は**だとか、そんな括りもしたくない・・・そんなときに政治家のように「信念」という都合の良い定義があればボクも助かるんですけど、残念ながらボクにはないので説明が難しいですけど・・・
必要なのは「こうあるべき」というそれぞれの個人ごとの“考え”と、「そういうこともあるんだ」という“理解”だと思っています。
「こうあるべき」という考えは結果として産まれもった特性や育った文化とか何かで違ってくるのかもしれませんけど、その違いを並べてどれが正しいかなんて、誰にも判断できないと思います。もしかしたら、「こうあるべき」や「常識」も文化を構成する要素のひとつでしょうか。そんな不変なもののような気がすることも、時間が流れると「文化」といっしょに変わっていくでしょう。
だから、納得できないかも知れないけど、異なった“考え”も“理解”しないといけないんだと。そうしてお互いの“考え”を“理解”することで、共存共栄していく方法を考える。いつものように理想論かも知れませんけど、大事だなと感じています。
『日本人とユダヤ人』を読んで、ボクの考え方に吸収されていくのは「単なる隣り百姓」と「人間(日本)教徒」。
隣りといっしょで自主性がないと思われても、「何やかやと言ったってさ、所詮同じ人間じゃないか」と曖昧なままの理想論で理解してもいいじゃないですか。それも千数百年の歴史が培った日本の「文化」で生まれ育ったヒトの個性の顕れなのかなと思います。
そういう点では、最近の「国益」や「資本主義」の議論のあり方には「文化」はあるのでしょうか???
そこにあるのは「分化」だけのような懸念をしています。
ボクにとっての「文化の日」は、こんな感じで思考の折り返し運転中、一部区間は通行止め。
今日の趣旨である「自由と平和を愛し、文化をすすめる」って、これで良かったのでしょうか・・・
やっぱりボクの一部の思考回路は「現在のところ復旧の見通しはたっておりません」か・・・
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