日経ビジネスオンラインで、非常に考えさせられる記事がありましたので紹介します。
毎週金曜日に小田嶋隆さんのコラムを読むのを楽しみにしていますが、
最近は、今回紹介する河合薫さんのコラムも楽しみの一つとしています。
菅降ろしでうごめく永田町の“ダメ”フォロワーたち
「ゴマすり」と「ヨイショ」がリーダーシップを骨抜きにする
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20110607/220528/?P=1
リーダーの資質がないことが問題なのか?
リーダーを支えるフォロワーが悪いのか?
先週に起きた永田町のドタバタ劇は、話題にするのもバカらしくなるようなものであった。
と始まる今回の記事・・・「話題にするのもバカらしくなる」とまでは言い切れないのですが、最近の菅内閣を巡る“永田町のドタバタ劇”は、私もリーダーの資質への疑問は少なからずあったとしても、リーダーだけの問題とは思えませんでした。
歴史は偉人一人で作り上げられるものではない。
小さな事件にしても、誰か一人の責任とは本当は言い難いと私は考えています。
それだけ人の関係はややこしいですし、「人」は一人では育ちません。
歴史的偉人も日本の首相も、自分の組織のリーダーも同じ人間で、スーパーマンはいないですし、勝手にリーダーになったわけでもないんですよね。
不満が募れば募るほど、批判は感情的になり、人格批判へとエスカレートする。
リーダーさえ変われば、今、そこにある問題が“すべて”解決されるような錯覚に陥っていく。
すべてはリーダーシップがないから。
リーダーシップのなさが、諸悪の根源であるがごとく扱われるのだ。
東電・福島原発の吉田所長の例ではないですけど、トップが誤っても、少なからず、それぞれの立場で軌道修正する手段が全くないとは言えない人もいるんじゃないでしょうか。(できることは小さくて、人数も少ないかもしれませんが。)
そういう人の多くが、それでもそうしないのは、自己保身であり、実は組織への不誠実であって、リーダーと同様に責められるべき対象かもしれませんよね。
「組織運営においてリーダーの及ぼす影響力は10%程度で、残りの90%は、部下であるフォロワーの人々の力が左右する」
こう説いたのは、米カーネギーメロン大学のロバート・ケリー教授である。
フォロワーのいないリーダーはこの世に存在しない。リーダーの下には必ずやフォロワーがいて、フォロワーがロボットでもない限り、そこにはフォロワーの行動や心の有様が組織のパフォーマンスの係数として存在する。
ところがどういうわけか、いつの時代もリーダーシップばかりが問題視され、「どこにそんなカリスマ性のある人物がいるのか?」というようなリーダー像が語られてきた。
このリーダーシップ神話に警鐘を鳴らしたのが、ケリー教授である。教授は一貫してフォロワーの重要性を説き、フォロワーとリーダーはヒエラルキーの違いではなく、専門性の違いであるという立場を取り続けた。
名リーダーがいるように、名フォロワーもいる。その両者がタッグを組んだ時に初めて、リーダーシップが発揮されるというわけだ。
最近の日本のように、トップを責めても、次のトップが必ずしも前任よりも良いかと言えば実はそうではなかったりして。
そういう意味では、日本はリーダーの問題も否定はしませんが、「フォロワーの問題」でもある気がするんですよね。
だからといって、どんな組織にでも責任者(トップ)はいるわけで、そのトップに都合の良いみんなの責任、組織の責任という逃げ口上は第三者からの理解であるべきで、当事者の理解であってはいけないというのも事実でしょうが。
そんなことを、右へ左へいろいろと考えるのにとても良い内容でした。
の受け皿ですからそれを受けて責任を(笑)
それで一時の不満は解消、そして次の方も
同じ世の中の不満を受けて責任を、、。
そして、一時の不満は解消、、繰り返し(笑)
何時の世も世の中には不満がありますから
いくらトップに完璧な方がなられても
いつの日か、、すんません変なこと書きまして。私は自分の与えられた仕事に真面目に
取り組み奥様と子供のために一生懸命働き
生きてきましたもので。(笑)
公の場で誰かを誉めるのは難しいですが、非難するのは簡単ですからね~
まぁ、それを受けて立つのもトップの資質や能力かと。
自分の与えられた仕事・・・
それが一番なんでしょうね。
誰もがまずは自分の持ち場でしっかりと能力を発揮する。
私もそう心がけます。