「思い」は見えないけど、「思いやり」は誰にでも見える・・・
そんなコマーシャルが流され続けています。たしかにこういう一面はあるし、偽善かそうではないか関係なく、「思い」も「思いやり」も大事だと思います。
こういうご時勢、こういう環境だからこそ、恥ずかしがらず、ひるまず、自分の中に「思い」を持つだけで終わらずに、「思いやり」を誰かに見せる行動も大事かもしれませんよね。
でも、実際には誰にでも見えるものではなく、一部の人にしか見えないのも事実なんです。
個人的には“誰にでも見える”という誇張は、見える「思いやり」だけを美化しているのとともに、「見えている」ことを押し付けかねない、曲がった「思い」を植えつけてしまう懸念も持っています。
気持ちをカタチに・・・
『自粛』という「思いやり」について。
これはすごく難しいと思います。なぜなら、自粛するというのは「しないこと」を選択することであり、つまり“カタチ”にしないことなんですよね。
たとえば、結果的に節電しているなどと「思い」を想像して、その「思いやり」を感じることはできても、残念ながら誰にでも見えるものではない。つまり、自分自身は節電しているつもりでも、誰もが通常利用している電気量と節電後の感覚は同じであるはずはなく、自分の節電は誰にでも節電と受け止めてもらえるわけではない。
だからこそ、「思いやり」は誰にでも見えるものではないと私は思います。
ややこしい話をして、申し訳ありません。
今日はこんな話を書きたいわけではなく、「自粛」の程度感について。
というのは、先ほどまで、今度、転勤で東京を離れる仲間の壮行会をこじんまりと行なってきました。こじんまりと、なかなか大手を振ってできないいうのも理由があるんですよね。
主賓は私が以前いた会社の仲間なんですが、その会社ではこういうご時勢につき、歓送迎会などは自粛するようにとの御達しがあったのだとか。一方、私のいる会社でも、同様の自粛指令。
たしかに前の会社では安否の確認ができない方がいるような話もありますし、とても多くの人が不幸な状況になっていることを思えば、バカ騒ぎしている場合ではないよという点では同意です。
しかしながら、都内の大学での卒業式や入学式だとか、こうした職場での歓送迎会だとか、こういう行事ごとの自粛は個人的には反対です。やり方や、周囲への見え方に、それこそ「思いやる」配慮は当然として、できる範囲で、できるだけ、キチンと行なうことが大事ではないでしょうか。
たまたまこういう時期に、節目のタイミングを迎えたということでもあり、該当者だけの問題ではなく、送る側・迎える側等々の礼儀としても、節目の行事は「自粛」すべきものではないのではないかと考えています。
新しい門出、新しい環境に向かっていく、彼らへの「思いやり」も決してないがしろにしてよいわけではありません。
だからといって、開幕を東京ドームのナイターで強行するようなことを奨励しているわけでもありませんので。要は、程度問題、そして「思い」「思いやり」の問題だと思うんですよね。
もうすぐ桜の季節です。
がんばろう日本。
子供たちには、一生に一度の思い出になるため
安全を確保しながら、できるところは行われる
ことを望みます。。。
遠くから電車でこなければならない生徒さんが
多い場合は、問題がありそうです。
この時期に行われること行事の意味を本人たち
もいろいろ考えていました。校庭の桜のつぼみ
は、だいぶ膨らんでいました。
お子様の中学卒業、おめでとうございます。
ホント、二度とない節目のことですので、
無事に式ができて良かったですね。
電車の混乱や計画停電・・・
いろいろとあるとは思いますが、できるだけ、キチンと区切りをつけてあげてほしいなと個人的には思っています。
いよいよ桜の季節ですね。
今年は入学式のシーズンが桜の季節に重なりそうな感じです。