一昨日の「誰のための介護保険か?」という記事に、ブログ仲間のskogさんからコメントをいただきました。直感的にコメント欄で返事を書ききれない気がしたので、こちらに書こうと思ったんですが・・・
何かを書くということは、ホント、難しいですね。いろいろ思うことをメモ代わりにここに残しておきます。
まず「介護はするもされるも修行です」というタイトルで書き残されたskogさんのコメントですが、やはり実際に身内の介護と直面した人の言葉は重いと感じました。
結局、ボクには現実感がないな、と。
唯一身内で喪った祖母の場合は、ボクが東京に出てきてからのこと、しかも自宅にいるときは元気で病院で力を失っていったというケースでした。また、今も両親は元気なうえに、遠く離れていますし。。。
厚生労働省の役人や、有識者とやらの人たちと同じで単なる机上論、実感のない言葉・考え・思いなんですよね。
それでもこういうことは考えていかなければいけないと思っているので、
「単なる机上論」という意識を忘れないで、勉強したいと思います。
実際はこのブログ全体の前提としても言えると思うので、ご容赦ください。
さて、このskogさんのコメントで、考えさせられたのは、
やはり人それぞれ、人生いろいろだということ。
日本は近代化していく中で、
介護や医療、広くいえば福祉全般について、相互扶助を「制度」として、標準化・仕事化してきたわけです。さらに言えば、介護も医療も「保険」とすることで、権利を明確化してきたんだと思うんです。
でも、実はボクらは未だ、ヒトを標準化できるほど科学が発達しているわけではないので、ヒトへの対応をすべて文章化・記号化することは未だ(将来も?)無理なんですよね。そう考えていくと、サービスが制度に沿えば沿うほどそれぞれのニーズと乖離していく部分が明確化されるわけで、“オブラート”ひとつすら(だから?)人それぞれの対応は困難になるんですよね。
そんなことを考えながら、
「みんなが等しく介護を受けられるとは私は考えていません」というskogさんの考えにボクも同感しているわけです。
でも、お役所では制度の運営が仕事ですから、制度のほうにサービスを合致させる方向ばかりが重視されているのが現状なんですよね。
これでは、何のための制度なのか?誰のための制度なのか?という話になるわけで・・・「人それぞれ」に対応できなくなったら、それはヒトをモノとして扱うのと同義であるとボクには思えるんです。
福祉がそれを実現できないのだとしたら、それは福祉とは呼ばない、
ボクはそう思います。
そういう点ではボクの専門分野(?)の人事制度もそうですが、
社会保険制度も文章が出来上がったことが、
すでに改善に向けたスタートであって、
文章に書かれていることを守らせることこと、自己正当化する意見の取りまとめや統計を作る努力などは愚の骨頂だといえるのではないでしょうか。
※この辺の話は、子ブログ「社会保険を考える」のほうで詳しく書いていますので、是非、ご覧ください。
また、「頭が正常に働いていればが前提で、出来るだけ自宅でヘルパーさんと過ごしたい」という趣旨のお話ですが、そう思いますよね。
人にとって認知症は一番、恐ろしい病気なのかも知れませんよね。ある意味、認知症となった人にとっては、本当の第二の人生となるんでしょう。未知の世界です。
でも、人が何のために生まれてきたか?
人は何のために生きるのか?
そんなことを考えるにつけ、認知症となった人も家族に甘えるべきだし、家族も認知症となった人の面倒をとことんまでみるべきだと思うんです。
もちろん、だからといって家族だけがノイローゼになるまでがんばるのも難しいと思うので、このあたりの支援を介護保険(あるいは税による介護支援)でうまく運営できないのかな?、と考えているわけです。
認知症といえば、こんな記事も出ていますね。
「アルツハイマーの人でもわかる」麻生外相が講演で発言(朝日新聞) - goo ニュース
麻生太郎外務大臣が金額の多寡が「アルツハイマーの人でもわかる」と発言されたようです。そのことについて、政府の見解は「謝罪していた。発言としては的確性を欠いていた。」ということらしいですけど、問題点の認識はしっかりとなされているんでしょうか?
まず問題なのは、麻生大臣のアルツハイマー病についての知識。
重症化した場合を除いてアルツハイマー病だからといって、金額の多寡が分からなくなるわけでは決してないんです。
そして、何より問題なのは差別意識なんですよ。
胃癌の人が云々とか、結核の人が云々とか、言わないでしょう?
要するに、過去はともかく、この発言により、少なくともこの瞬間、アルツハイマーの人を蔑視したわけです。
こういう大臣には、介護施設でボランティア活動を命ずればいいんです。
こんなことを「的確性を欠いた、でも謝ったからいいじゃないか」と言ってしまうようでは、変な方向に「とてつもない日本」となってしまいますよ。
村上被告ではないですが、このような差別意識には慄然とせざるを得ません。
ある著名な大学の教授が言っていました。
「認知症は決して人が悪くなるわけではない。逆になまじっか認知機能がしっかりしているばかりに人は悪いことをする。」
村上被告にも、麻生大臣にも聞かせたい言葉です。
ということで、長くなりましたが、skogさんのコメントへの返事(?)でした。
自分が記した記事に、思いつくままにいただけるコメントほど刺激になるものはないと思っています。あらためてブログは面白いと感じています。
政治家のみなさんも、建前だけ飾るのではなく、こういう話を正面から聞くべきだと思うんですよね。
選挙報道への失望・・・
同感です。自らは非難されることのない場所から、しかも一方的に誰かを責めるのは「報道」とは言いたくないですね。
日本の未来、ボクらの未来に向けて何が出来るのか?
それは政治家だけの責任ではないですよね・・・
おっしゃるように欠けているのは「優しさ」でしょうか。
誰もが実はつながっている、、、
そう思いながら、ボクらは、信じることしかできないのも現実ですけど。
バリ島に出掛ける前にコメントを残していきました。
丁寧に取り上げて頂いてありがとうございます。
私自身何を言いたかったのか纏めて書けるとは思いませんでしたので、思いつくままの書きなぐりをしてしまいました。
介護の問題になるとつい介護をした事とこれから介護を受けるであろう事が交差して熱くなるのですよ。
帰国後の選挙報道を見ているとますます失望をしています。
自分を守れるのは自分でしかないと思っています。
少しの優しさを社会が持ってくれると、私の老後はもっと柔軟な方向を向くと思います。
法の整備もそれを順守することを含めて、みんな人の手を通してなされるものですから元は人の優しさに尽きると思うのです。
同情とは違う種類の優しさをと望むのは難しい事かも知れませんが。