しがみつく手のように世界に根を張った老木の、枝が折れる音を今朝聞いた、ゆっくりと、指を鳴らすみたいな…まだ誰もが寝静まる時間でなければ気付かないくらいの―死…枕もとの辺りでかすかに木魂しただろうか?俺にはそれを確かに知ることは出来なかった、それはするりと内側の空洞から抜け出して俺のそばに来た、俺は夢うつつで…それがどういうことなのかも把握しないままそれに問いかけた何故ここに来た、俺はおまえの事を知らない…そいつは窮屈そうに首を揺らしてこう答えた、たまたまだと…色の違う空気がここに流れていた、だからともに来たのだ―そうか、と俺は答えた、理由があるのなら構わないよ、と寝返りを打ちながら答えた…理由は理由としてそこにあればそれで構わない―理由の中身に頓着したところでそれは時間の無駄というものだ…色の違う空気がそこに流れていた―そんなものに何か足したり引いたりする理由があるだろうか?寝返りを打つとそいつの成り立ちをはっきりと見ることが出来た…ほぼ白と言っていい灰色、ほぼ白と言っていい灰色の身体―うろのようなものがみっつ…目、らしきうろがふたつ、口、らしき少し大きめのうろがひとつ…そのうろの内側はれっきとした暗闇で中になにが潜んでいるのか…どれほど眼を凝らしてもそれは判らなかった、暗闇だ、と俺は思った、長い年月はそれが経過したという事実だけで深い暗闇のようになるのだ…俺は顔のようなみっつのうろをじっと眺めていた、不思議な事にどれだけ時が流れても覚醒といったような感覚を覚える事は出来なかった、何が見たいのかねとそいつは言った―何か見つけたくて見てたわけじゃない、俺がそう答えるのをまるで見越していたように―それで、と俺は話を進めようとした、何かこの俺に話したいことでもあるのか?ない、いや、忘れた、とそいつは答えた、忘れただと!?俺は思わず声を荒げた、しかしそいつはびくともせず…まあ、そう言うな、と―記憶なんかそんなに維持することは出来はしないんだ、と―俺は深くにもそれに頷いてしまった…そんな感覚が理解できないやつなんて果たしているのだろうか―記憶なんかそんなに維持することは出来ない、それはまさしくそいつの言う通りなんだ…そうでなければ時間の経過の暗闇はなんの深度も得ることが出来なくなってしまうのかもしれない…そうか、と俺は言った、だったら―勝手にするがいいさ、俺はもう少し眠らなければ上手く動けないんだ…俺はそう言ってそいつに背を向ける形で寝返りを打った、そいつは眠るようにうなだれたみたいだった、陽が差すとな、とそいつは不意に話しかけた、陽が差すと―陽が差すとわたしはそこに消えてしまうだろう、わたしは不覚にも理由も何もすっかり忘れてしまったけれど、それだってまったく無意味なことじゃない…その、忘れるという空白のあまりの白さの中に書いてあるものを感じることを覚える事ができるかもしれない…わたしの晩年はまさにそういうものだったよ、本当はもう少し生きるはずだったが…駅前のマーケットの建設のせいで足元を流れていた地下水がどこかへ落ちてしまってね、それでもう水分を取ることがままならなくなってしまった、近頃は雨も大して降りはしないしね…だが、まあ、いいんだ、そんなことは構わないんだ…私の周りで枝を広げていたたくさんの仲間達なんかはまだどくどくと身体に水を流しているうちに容赦なくなぎ倒されてしまったからね…何故わたしだけが残されたのか―きっとわたしが一番歳を取っていたからだろうね…歳を取っていて、一番背が高かった―見栄えのいいものは古くとも残されるのさ、見栄えさえよければ―見栄えさえきちんとしてればそいつだけが残ったのは良心のように見えるからね…ほっといてももう何年も持たないと踏んだのかもしれない、わたしはそれから二十年生きたから、あの時そう判断したやつがもしも居たとしたらかなりの間地団太を踏んだことだろう…昔話は嫌いかね?まだ眠ってはいないのだろう―?おまえが小さなころ、わたしの足元で遊んだだろう…おまえは忘れてしまっているだろうが、おまえはわたしの根の張り出したところに頭をもたせて眠ったことさえあるのだ―俺はぼんやりしながらそのことを思い出そうとした、でも、俺は去年この街に流れてきたばかりなのだ―やがて老木の声は次第に力をなくし、フェイドアウトするように次第に小さくなった…巻き上げるような風が一陣吹いて、静謐な気配が消えた―そのころには俺はほとんど眠っていた…目覚めてから窓を開くと、折れた枝先がすがるようにべランダにぶら下がっていたんだ…
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