オレンジの色味に我慢が出来なくなった乞食が、くすねようとしてしくじる市場
捕まえて殴ったのは件の果物屋の隣に店を構える乾物屋の冗談が上手い親父
『悪いことをするやつには我慢がならねえんだ』と、皆の溜まり場の酒場で語った
いつもは優しい親父にそんな一面があるなんてと、市場の連中は驚き、即座に行動した彼の判断を褒め称えた
『あいつはやると思っていたよ、見るからに喰いたそうな素振りで朝から昼過ぎまで何も買わずにずっと市場をうろついてやがったからね。』
『ああ、あいつはやばいなと俺も思ってはいた。』果物屋のはす向かいの小物屋の若者が言った
『だけどまさか本当にやるなんて…』
まったくだ、と皆は口々にそう言った、「何もしなかった」自分を肯定しなければならなかったから
『今まで乞食なんて市場に紛れ込んだことなかったのにねえ。』酒場のママは別にそれが何のせいでもよいという調子で呟いた『世の中景気が悪いのかねぇ…。』
『この店は繁盛してるじゃないか。』木彫り細工屋の髭面の大男がママを冷やかした
『あんたの払いはまだだけどね?』とママが冷やかす、皆は馬鹿笑いする、乾物屋の親父は主役を奪われてむっとする
乞食の話はそれで終わり、後は男だの女だのの話があちらこちらで遅くまで交わされた
やがて看板になり、ママに急かされて連中はご機嫌でばらばらと店を後にし、それぞれの寝ぐらへ千鳥足
ママはつくともないため息をつきながら零れた酒や煙草の吸殻を始末する、今日も一日が終わった、私は昼まで眠って起きるだけ―
件の果物屋の店主はまだ若い娘で、見合いで仲良くなって式を挙げた旦那が二ヶ月足らずで病死したばかりだった
娘は殴られている乞食の顔色に見覚えがあった、あれはきっと肺を病んでいる―旦那がくたばるときにああいう顔色をしていたのだ
娘はふと思い立って明日の売物の蓄えからオレンジをひとつ取り出すと夜の街路へ飛び出した、こんなことをしてどうなるというものでもないけれど―
夜気はまだ冷たく、夜露がまとわりついた、いやな空気、雨の前みたいな
この小さな町で乞食が宿を取れるところなんて幾つも無かった、娘はほどなく港に近い公園のベンチで喀血して死んでいる乞食を見つけた―もがいてはだけたらしい肌には不気味に変色した痣が幾つもついていた
ベンチから男が吐き出した血液がたくさんの筋を作って地面に落ち、それはまるで小さな天蓋の一角のように見えた
娘は呆然と男に近づき、開いたままの瞳を覗き込んだ、あの時、その瞳は娘のことを見たのだ
乾物屋の親父に痩せた腕を掴まれたその瞬間に
『いいわよオレンジひとつくらい。』そう言ってやればよかったのか?けれど娘には何も思いつかなかった、そんなことは初めてで、怯えて、震えているだけだったのだ
娘は長いことそこにそうしていたがやがて自分に出来ることは(もう)何一つ無いのだと悟り身を翻して家路への道を急いだ
家の近くまで戻って来たとき、娘はその手にオレンジを持ったまま来てしまったことに気付いた
こんな―こんな小さなものが誰かを殺すことになるなんて―
娘は家の前を通り過ぎ、市場のそばにある川まで走り、川面にオレンジを投げ込んだ
それは明日売ることの出来るオレンジがひとつ減るということを意味していた
そして娘はとぼとぼと家に帰り、泣きながら眠った
翌朝港で働く男が公園で死んでいる乞食を見つけた
その男もまた酒場の常連で、(ああ、こいつがその…)と、思っただけだった
人が呼ばれ、痩せこけた乞食は町の墓地の余ったところに気休め程度のしるしと共に埋められた
犬か猫の埋葬の方がまだ愛されていた
昼休みに港の男が市場で買い物をするついでに乾物屋に寄り、昨日あんたが言ってた乞食死んでたよと告げた、隣で聞いていた娘はかすかに青ざめた
聞きつけた市場の連中が商売そっちのけで乾物屋に群がり、ああでもないこうでもないと言葉を交し合った
娘は出来れば聞きたくなかったが隣の店にいてはそうもいかなかった
『そんなに強く殴っちゃいないよ。』乾物屋の親父はばつが悪そうにそう吐き捨てた『寿命だったんだよ。』
そうだよ、寿命だったんだよと誰かが声を合わせた、それで他の皆もそれならそれでいいかという気になってそれぞれの店に戻った
だって本当に汚い乞食だったし、乾物屋の親父は本当に冗談が上手い人だったから
娘はいてもたっても居られない心境だったがその日は誰かがひっきりなしに果物を買いに来た
結局のところ、彼女以外は乞食が死んだことをなんとも思っちゃいなかった
(オレンジ一個ぐらいなんてことはなかったんだ)
最後から二番目のオレンジを笑顔で客に渡しながら娘はそんなことを考えた
そして、私は明日もここでオレンジを売って日銭を稼ぐのだ
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