太陽は無数の光線に変わりながら急速に変化していく季節に強い陰影を塗りつける、空を目指していた草花たちが運命に漂白され、緩やかだった風は翻る、それまでそこにあった、生命の象徴のような温度を拭い去っていくかのように…ほぼ流れの涸れ果てた川のほとり、ろくに整備もされていない公園のベンチに腰掛けて酷い爆発のあとみたいな切れ切れに散らばる雲を見上げていた、ついこのあいだまでそいつらは力こぶのように強靭に盛り上がっていたというのに…すべてはそんなふうに失われたみたいに変化していく、それを喪失なんて言葉にするかどうかはもちろんこちらの勝手に過ぎないのだが、とりわけこの季節の終わるころは酷くそんなふうに感じてしまう―飲み干したコカコーラのアルミ缶を握り潰して、カラカラの川原に浅い穴を掘って埋めた、なにかそんなふうに、血の通っていないものを埋葬したい気分だったのだ、そうしてしまうと周辺が途端に薄暗いイメージに包まれた気がした、たったひとつの愚行がはからずもその荒れ果てた一帯を象徴してしまったのだ、本当に拙いことをしてしまったと思ったがいまさらどうすることも出来なかった、間違えて掘った穴は埋め戻したってそこだけ色が違うものだ―近くの工場からはラジオの音が聞こえる、懐かしい洋楽を流している、そのシンガーは二十年近く前に事故でこの世を去った、どんな気分だろう?自分が二度と歌えないうたがこうしてオンエアされているというのは?ときどきこんな出来事に遭遇するたびそんなことを考えてしまう、考えたところでどんな結論も導き出せないことだとは判っているのだけれど…それは存在なのか、それとも存在ではないのか、肉体的な存在ではもちろん無い、でもメディアとしてはスピーカーの向こうで歌っている男がいまはどうしているのかなんて取るに足らないことであり、大事なのはきっとその歌の中にそいつの存在を感じられるようななにかがあるかどうかだ、だからこうして絶対的な不在の中にあっても存在し続けている―人が歌をうたうのはどうしてだ?それはきっと同じことを同じように話すつもりが無いからだ、そんな意図はすべてのものをつまらない話にしてしまうことを、自分が探し続けてきた中で確信しているからだ―言葉に語れることはわずかだ、それは意味にとらわれすぎているせいだ。すべての芸術は意味を破壊することから始まる、意味を破壊して、再構築する、羅列と羅列のあいだ、イメージとイメージのあいだに新しい感覚が挿入される必要がある、カレイドスコープをくるりと回してほんの少しだけ見ているものを変化させるみたいに…いつでもイメージを欲しがっている、動き続けるものを動かし続けるために、同じ景色を違うふうに眺めてみるために―同じことを語るのに同じイズムを必要としてはいけない、すでに書いたものは二度と書かれる運命に無い、同じことを語ろうとするなら変化し続けなければならない、生きるということを考えてみると良い、小さな細胞から始まったいきものが、生を全うするためにどれだけの変化を繰り返してきたか?考えるまでも無い、生きる、という言葉ひとつで語れるそれだけのものの中で、数え切れないほどの命が変化を繰り返してきた、人がうたうのは、書くのは、そんなものの断片を記録することで命の中で繰り返してきたものをより明らかにするためだ、だからそれは書かれなければならない、進化に通じる書き方で、生命の流れを離れないやり方で…眼前にも背後にも戦慄が溢れている、一方のものはすでに書かれていてもう一方のものは書かれてはいない、それは無限にある、様々なやり方が必要になる、あるものは絵を描き、あるものは詩を書き、あるものは歌を書き、あるものは歌う、それらを使い分けるものもいる、古典文学などと呼ばれている時代の連中のように―旋律を追いかけるやり方には本来垣根など存在しないのだ―もうすぐこのあたりの花弁もすべて煤けて落ちてしまうだろう、旋律をたどれ、と彼らの最期は語る、安住してはいけない、見失わないために追いかけろ、と―汚れた土の上に横たわりながら彼らもまた新しい生命を模索している。
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