桃太郎、温羅伝説
時間があり余り過ぎてる方へ(;^ω^)
以下『桃太郎伝説』 さんより引用させていただきました。
↑鬼の城上の写真は現在復元された温羅(うら)の城…鬼の城の西門(2009年booブーさん撮影)
いよいよ戦いの火蓋は切って落とされた。武勇に優れた命は次々に矢を射る。一方、腕力の強い温羅もこれに負けじと岩を投じる。矢と岩とは空中でぶつかり、海中に落ち、戦いはまさに五分と五分。そのあまりの強さに、命は温羅を変幻自在な“鬼神”に例えた。
そんな時、命はふっと思いつく。一度に二本の矢を射ればどうだろう、と。一本はこれまで通り、空中で岩とぶつかり合うも、もう一本が温羅の左目に命中。温羅の目からしたたり落ちる血潮は血吸川まで流れていく。左目に傷を負った温羅は山中に隠れるも、命はなおも追ってくる。諦観し、血吸川に身を投じた温羅を、執拗に追う命。ついに温羅は捕らわれの身となってしまう。
こうして五十狭斧彦命によって侵略された吉備の国
温羅の死後、彼を慕うあまり新しい征服者に住民が深い恨みを抱くようになり、いろいろな問題が生じて統治がうまくいかなくなりました。 そこで大和朝廷は住民をなだめる方策として、温羅を神と祭りあげ、その神社に高い位を授けた。そして、今の吉備津神社は、最初は温羅を祭神としてあったのではないだろうか!?
上の写真は吉備津神社(2009年booブーさん撮影)
中山には「吉備津彦神社」というのと「吉備津神社」という二つの神社がものの300mも離れていないところに建っている。 桃太郎、のイメージモデルとされる吉備津彦命(五十狭斧彦命…イサセリヒコノミコト)がメインとして祀られている吉備津彦神社のほうが有名であって当然なのに、実際は吉備津神社のほうが圧倒的に人気で、その社殿は重要文化財としての指定も受けている。見た目にも立派なのは吉備津神社というのが皮肉です。
そのわけは、やっぱり地元の住民にとって、温羅が一緒に祀られている吉備津神社のほうを大切に思う、温羅の恩を忘れてはいないという証なのでしょう。
吉備津神社回廊(温羅)のお釜電へ通じる 鳴釜神事が今も脈々と継がれ人々の支えとなっている
そもそも桃太郎伝説はその時代の天皇が吉備を訪れた際に献上した作り話であり、桃太郎伝説のモデルは温羅と五十狭斧彦命だそうです。 勝者が手柄話を大きくし敗者を誹謗し、事実を歪曲して後世に書き記すのは人の世の倣い。何が真実であったかを探るにも長い時間のトンネルの闇に隠され、紐解くことは不可能なのかもしれません。
でも岡山の人は桃太郎こと五十狭斧彦命より、鬼とされる温羅にこそ親しみを感じているのは確かなようです。
この記事の引用は『岡山県の歴史』(山川出版社)としょうたさんのHP 『桃太郎伝説』著者の名前不明です。かなり詳細が記載されています。 写真はブログでお知り合いになりましたbooブーさんにお借りしました
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腰椎ヘルニアで苦しんでいるとき手持ちの紙の本10冊読みました。
北森鴻さんの桃太郎伝説では裏が鬼
岡山で言い継がれている話は温羅が鋳鉄ほか
文化、文明に貢献した優れた人物であったのが真実のようだ。
結局大和朝廷としては目障りであったから
桃太郎に征伐を命じたところから意外な展開へ。
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