石橋みちひろのブログ

「つながって、ささえあう社会」の実現をめざす、民主党参議院議員「石橋みちひろ」の公式ブログです。

被災地からの報告(その5)~気仙沼市唐桑に行ってきました

2011-03-29 23:28:55 | 活動レポート
しばらく、更新が滞っていました。その理由は言うまでもなく、大震災への対応で動き回っていたからです。それにしても、この1年半、忙しくてもほぼ毎日このブログを更新してきたわけですが、先週の金曜日あたりからの流れは、私にそのブログ更新をも後回しにさせるぐらいの動きだったのです。

被災地に入ってきました。

震災直後から被災地に支援活動に入りたいという思いは強かったのですが、数日前にも書いた通り、民主党も議員の被災地入りを原則、止めていましたので、なかなか入る機会がありませんでした。それが、24日から高速道路の通行規制が解除され、燃料の供給にも一定の改善が見られたこと、さらには救援物資の支援や現地活動への応援で議員の現地入りも解禁状態になったことで、入ろうと思えば入れるような状況になったのです。

そしてそのタイミングで、大変興味深いオファーが舞い込んできました。都内のあるラーメン屋さんが、「被災地の皆さんにぜひ、温かいラーメンを食べさせてあげたい」というのです。それをぜひ実現しようという話になり、同僚の安井美沙子参議院議員と連携して、そのラーメン屋さんの自主的な炊き出し支援を応援してあげよう、そしてその機会に、民主党の現地支援活動を実施しようという話がまとまったのでした。

訪問したのは、宮城県気仙沼市の唐桑地区のある避難所。今回の大震災で大きな被害を受けた気仙沼市の中でも、海よりの半島部にあり、沿岸部は壊滅的な被害を受けたところです。震災後も、気仙沼市全体が大きな被害を受けたためになかなか支援の手が回らず、避難所の皆さんも大変苦労をされながら避難生活を送っておられます。

出発は土曜日の午後8時。日曜日の早朝に現地入りしたいということで、かなり時間に余裕を持って東京を出発しました。現地までは約8時間の道のり。車を交代で運転しながらの行程でしたが、思いの外、高速道路は空いていて、順調に現地そば50キロ地点まで行くことができました。ここで約2時間半、仮眠をして、朝7時半頃に避難所に到着。別々に移動していたラーメン屋さん部隊と合流して、いよいよ準備の始まりです。

とは言え、炊き出しをするのはラーメン屋さん。われわれは間をつないであげただけ。準備の時間を使って、避難所役員の皆さんとの意見交換や、市街地の視察、現地の防災センターへの訪問、さらには避難所におられる避難住民の皆さんからのヒアリングなどの活動に出かけていきました。


(避難所の役員の皆さんとの意見交換)


(避難所の本部長さんとの意見交換)

いろいろと書きたいことはあるのですが、私が感じたことを以下にまとめて書き綴っておきます。

まず、今回の被災地支援活動を通じて、被災現場の状況は、写真や映像で見ていたものとは全く違うものであることを実感しました。目の前に広がる光景 ---- 津波で作られた広大な更地、その反対側に積み上がった膨大な瓦礫の山、津波の到達点によって分けられた明暗、避難所での集団生活の状況、自治体の災害対策現場の混乱など ---- は、まさに直接現地に足を踏み入れて見なければ、到底理解できないものだったのです。


(気仙沼市鹿折地区の様子)


(気仙沼市街沿岸部の様子)


(内海太・県会議員に説明を受けているところ)

すでに述べたように、気仙沼市は市街地が壊滅状態になった上、唐桑地区を含めた広範な沿岸地域が被災しています。そのため、市役所の行政機能が麻痺し、その立て直しにかなりの時間がかかった(かかっている)のです。市内の避難所数は約100カ所。その避難所の場所や避難住民の人数を把握するのにもかなりの時間を要し、救援物資の提供は未だにスムーズにいっていません。特に、唐桑地区など、市街地から離れた避難所への支援は遅れ気味であり、私たちが訪れた避難所では「支援も、情報も、物資も来ない」「置き去りにされている」「今後が不安だ」という声が渦巻いていました。

皆さんは驚かれるかも知れませんが、孤立した避難所では全く情報が入りません。テレビも、ラジオも、新聞も、電話もない世界を想像してみて下さい。何が起きたのか、何が起きているのかも分からず、ただ支援を待って助け合い、必死に生き延びてきたという状況だったのです。

唐桑地区のこの避難所には、避難後間もなく、米軍がヘリコプターで支援物資を大量に届けてくれたということで、米軍に対する感謝の声が上がっていました。その一方で、自衛隊は一度調査に来てくれただけでその後、一度も入ってきていないとの不満が。実は、自衛隊は気仙沼市中心部での活動に忙殺されているのですが、唐桑地区の皆さんは疎外感を感じておられるわけです。

今後、全ての避難所や被災住民をつなぐ「情報の共有システム」をきちんと整備し、被災地域の住民の皆さんに安心を与えることの重要性をあらためて感じました。その上で、被災者の皆さんがまずは安心して生活出来るよう、日々の生活に必要な救援物資の「定期的かつ安定的な搬送システム」が構築されなければなりません。また、唐桑地区では未だに「瓦礫の撤去と行方不明者の捜索支援」がほとんど手つかずで残っています。この点も、市役所との連携により、自衛隊や消防など、重機を使える部隊の支援活動が早急に必要です。

今回は、ラーメン屋さんによる炊き出し活動を応援したわけですが、その体験から大勢の避難民の皆さんに毎日確実に食事を提供することの大変さも実感しました。この避難所では、毎日当番を決め、届いた物資を活用して炊き出しを行っています。当初は一日2食、今は3食提供しているそうですが、メニューは簡素なものにならざるを得ず、量の面でも栄養面でも大きな課題があります。

今後、避難生活の長期化が必然となる中で、安定的な食事の確保が非常に重要な課題になることは間違いありません。

そして、避難所生活を送られている被災者の皆さんから話を伺う大変貴重な機会をいただきました。避難場所の仲間で足を踏み入れることに最初は抵抗があったのですが、むしろ避難されている皆さんから呼び込んでくれて、今回起こったこと、避難所生活の問題点、将来への不安など、多くの課題について生の声をいただきました。皆さんが過ごしておられる布団の上に私も座り込んで、一緒の毛布をかけて話し込んだのです。

いろいろな話をしました。しかし一番心に残っているのは、「いつまでも悲しんでいられない。生き残ったわれわれが、この後の人生を賭けて再建・復興しなければならない」という言葉でした。私がお話しした方々の多くが、奥さんや旦那さん、ご両親を失っている方々でした。しかし、しっかり生きていきたいという力強さを感じさせてくれたのです。もちろん、不安は大きいです。家はどうするのか、仕事はどうなるのか、町は再び立ち上がれるのか・・・いや、それでも生きていくんだ、という思いが感じられたのです。

私たち国会議員は、その被災者の皆さんの思いをしっかりと成就しなければいけません。時間はかかるでしょう。しかし出来ることは全部やる、党派を超え、国民の力を総結集して復興する、そういう気持ちで当たっていかなければならないと思っています。私自身、今この瞬間ほど、「つながって、ささえあう」ことの重要性を感じたことはありません。

国会議員の活動として、物資の輸送などの活動も重要でしょうが、被災者の皆さんのさまざまな声に直接耳を傾け、それを今後の国政の場での議論に活かすこと、それこそが私たちにしか出来ない重要な役割なのではないかと思います。今回、気仙沼や唐桑でいただいた皆さんの声は、必ず今後の国会での活動に生かしていきます。

最後に、今回のきっかけをつくってくれたラーメン屋さんに感謝しないといけないですね。なんと言っても、約250食をすべて自費で、材料も道具もすべて持参で、避難所には一切の迷惑をかけずに提供してくれたわけです。最後には、避難所の皆さんが大きな拍手と感謝の言葉をラーメン屋さんに贈っていました。「温かいラーメンをありがとう」と。協力した私たちも、少しばかりの「温もり」を運ぶことができたかなと嬉しく思っています。その場でお別れしたラーメン屋さん、今度食べ損ねたラーメンを都内のお店に食べにいってきます。

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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
唐桑町の幹線道路状況 (ちば)
2011-04-01 21:55:23
唐桑町の幹線道路状況を教えて下さい。
実は、唐桑町に叔母が居るんで、行きたいので、よろしくお願いいたします。
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現実 (D.H)
2011-03-30 11:29:18
被災地への訪問ご苦労様でした。
報道されている状況とはまた違った被災地の現実がまざまざと伝わってきました。
避難所の格差がこれほどまであるのかと驚くばかりです。今回の生の声をぜひ実のある復興に生かして頂きたいと思います。
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深謝 (森田明彦)
2011-03-30 07:43:46
ご多忙のなか、被災地の視察にお出かけいただき、限られた時間のなかで現地の難しい状況を把握いただき、さらに、その知見を直ちに政権の下でアクションに結びつけていただき、誠にありがとうございます。

これからも宜しくお願い申し上げます。

森田明彦
シニアアドバイザー
セーブザチルドレン・ジャパン
尚絅学院大学教授
宮城県名取市
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