AKB48の旅

AKB48の旅

アンチと対置

2018年10月09日 | AKB
「不完全」なものの面白さ、「アイドルによる舞台」で感じたもの

そんな中で私が作品に感じた印象は、「不完全なものの面白さ」という部分である。映画を見ている中で爆笑に包まれながら、心の中で全ての制作に携わる人たちの気持ちを思った。たとえば演技、舞台、演奏といった中でのミスは、当事者にとっては隠したくなるものだが、この作品は、そういった認識を逆手にとって、面白さにしている。ひょっとしたらあの映画が終わったときに起きた拍手、そしてこの作品が大きな話題を呼だことは、そういった部分が現在世間で求められているものと、合致する傾向があるからではないだろうか。

 たとえ、AKB48は元々それほど完成された形で世に出てきたものではない。むしろ何者でもない少女たちが成長する様を見守る、そういった新たな“アイドルのトレンド”的な傾向を作り上げたものであり、未完成な部分から様々な印象、刺激を披露することで、その存在を印象付けてきているようにも見える。そう考えると今、まさに世では“未完成なもの”が求められているようである。その意味では“アイドル”を前面に置いた舞台作品で出演者なりにできることを見せるというのは、一つの面白い傾向と見ることもできるだろう。


過去ログで散々に論じてきたことなので繰り返しを避けて、ちょっと視点を変えてみる。大人=完全体、子供=不完全体という、日本以外では常識的な考え方だけど、敢えてアンチ的な態度、立場を取ることなく、そっと対置させるという振る舞いこそが、「予定調和を壊す」のではないか。

欧米という外部性の侵入に対する、広義のアンチとして近代日本が生み出され、その近代日本によって咀嚼され血肉化された日本文明に対するアンチとして近代アジアが胚胎された。遡れば、その欧米においても、類似の構造のアンチの連鎖があったことは明らか。そしてそんなアンチは、創造と同時にそれを遙かに上回る悲喜劇を、いやと言うほど積み上げてきた。

ならば、そんなアンチの連鎖を解き放つという解答は不可能なんだろうか。アンチではなく、異なった価値観をそっと置く。歴史を鑑みればなかなかに困難であることが分かるけど、それでも近代日本におけるアンチの所作は、穏やかなものだったと言えるのではないか。であれば、より洗練された在り方として、現代日本であれば可能な選択なんではないか。そしてそれは、寛容と多様性という価値観とも親和的に思える。

題名は語呂合わせを狙ったものだけど、「対抗と対置」ではちょっと違うと思うし、アンチという言葉のニュアンスをここでは尊重したいところ。