三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

阿坂城

2020-01-25 15:41:59 | 松阪の城

松阪の城50選

阿坂城 SAKURA

阿坂城

あざかじょう

城    名 阿坂城
住 所
松阪市大阿坂町
築城年 1350年ごろ
築城者 北畠親房
形 式 山城
遺 構 郭(白米城・椎ノ木城)、堀切、竪堀、土塁
規 模 南北300m、東西150m
城 主 北畠親房、北畠満雅、大宮入道含忍斎
標 高 312m
比 高 270m
歴 史 南北朝時代から室町時代を経て戦国時代で終える217年間の歴史がある。
経 緯  
  ① 14世紀 築城時期 北畠親房のとき 文和元年・正平7年(1352)の戦い
 

    南北朝時代;9月5日、細川元氏、伊勢国に入り南朝軍と戦う。10月4日、

           土岐頼康もこれに参陣し、阿坂城中村口に戦い撃破する。

  ② 15世紀 63年後 北畠満雅のとき 応永22年(1415)の戦い
 

    室町時代;5月16日、室町(足利)幕府軍、北畠満雅が籠城する阿坂城を陥

           落させる。和解が成立。白米城伝説のとき。

  ③ 15世紀 10年後 満雅2回目の戦い 1425年-1428年
 

    応永32年;1425年、北畠満雅(みつまさ)が阿坂城で足利軍(室町幕府)

           に反旗をひるがえし、再び挙兵するが岩田川の戦いで満雅討死。正長元(14

           28年12月21日)晒し首となる。

  ④ 16世紀 141年後 北畠具教のとき 永禄12年(1569)の戦い
 

    戦国時代;8月26日、大宮入道含忍斎、羽柴秀吉に討たれる。阿坂城は以

           後廃城となる。しかしこの時秀吉も一生に一度のけがをした。

書 籍 三重の中世城館
環 境 南伊勢の入口と多気への入口の両方を俯瞰できる場所にある。
家 臣 大宮兵部少輔;軍奉行
現 地

 支城に椎の木城を持つ。  逆かもしれない。椎の木城が主郭で白米城が支城か。

 出城に高城と枳城を持つ。山頂へは整備された道が浄願寺から続いている。ハイ

キングコースとして人気があり年中人が訪れている。

考 察

 北郭(椎ノ木城)は虎口や土塁や堀を持つが、南郭(白米城)は虎口も明確に

 分からず郭に土塁もなく、腰郭も完成度が低くく城の個性が違うところに面白さ

 がある。両方合わせても大きな山城ではなくコンパクトである。

感 想

 白米城伝説は有名で吾輩も小さいころから聞いていた。ハイキングでここを訪

 れて白米城や椎ノ木城を見て山城ファンになる人がいるかもしれない。

地 図

 

 


島田城

2019-07-16 14:06:07 | 松阪の城

☝ 満雅が山号額を揚げた真性寺

☝ 満雅が揚げたとされる山号額

☝ 北から見る島田城

☝ 馬出しか、北に突き出た丘陵地

城名
 島田城
読み
 しまだじょう
住所
 松阪市嬉野島田町
築城年
 15世紀か
形式
 居館
遺構
 なし(ただし、堀切らしき道を挟んで馬出しらしき畑地を見ることができる)
規模
 北に位置する畑地を馬出しの機能を持つ城域とすると東西130m、南北100m。
城主
 野村平三郎(弓組) 野村半十郎
家臣
 北畠家臣(家臣帳に半十郎の名が載る)
標高 40m 比高 7m
歴史
 応永九年(1402)伊勢三代国司北畠満雅は雨乞祈願して霊験あり、満雅大いに喜んで筆を執り龍谷山の山号額を寺に掲げたと伝えられている。
 その後、天正四年(1576)兵火にかかり本堂以下焼失したが本尊及び熊野本地仏は難を免れ現存している。
真性寺掲示板より 平成7年3月 嬉野町教育委員会
書籍
 松阪市遺跡地図 
 三重の中世城館では『勢陽五鈴遺響』から佐竹川北内匠助の名が上がっている。(嶋田城、不明城館として扱っている)
環境
 北に向けて防御した様子が伺える。幅150m、比高7mの田圃(当時は沼地?)が北東から西に向かって巡っている。背後の南は丘陵が西南の中村川に突き当たるところまで続き、ここは丘陵の東端であることが分かる。
現地
 北の小山(おやま)標高180mに小山城があり視界は効く。南北に走る尾根筋で島田城と行き来はできる。
 南を流れる中村川と北を取り巻く田圃(当時は沼地?)の間に位置し、東に向けて舌状に延びる丘陵の東端にある。居館といえども防御には自然を生かした適地である。
考察
 史料は未だ見つけていないが、北畠満雅の家臣であったのかもしれない。そして、中村川に関係する武将であったと考えるのが一番近い予想と考える。
感想
 遺構は何もないが比定地の門扉、石垣や白壁などを拝見すると、当時の様子を想像するには十分なロケーションであり風情である。
地図

 

 

 

 

 

 

 

 


小牧薩摩守館

2019-06-17 14:37:35 | 松阪の城

 

☝ 虎口

☝ 説明看板

☝ 曲輪

犬走り

☝ 石垣

☝ 石垣で補強された土塁(櫓台)

☝ 構造物跡

 

 

☝ 上小川城想像図(縦寸法は2倍に増幅した)

城名
 小牧薩摩守館
読み
 こまきさつまのかみやかた
住所
 松阪市嬉野上小川町
築城年
 15世紀(1400~1499) 注1
築城者 城主
 小牧薩摩守(小川城城主)(役職;白口峠の番頭・矢下の家老)
廃城年
 天正4年(1576)白口峠が突破された、霧山城の戦い(12月4日)ごろと推定。 注2
形式
 居館
遺構
 曲輪、櫓台、石垣、溝
規模
 100m四方
家臣
 北畠家臣であった。家中には立木重兵衛等がいた。
一族
 一族の小牧頼長は霧山城の戦い(天正4年12月4日)で討死している。(北畠物語)
標高 417m 比高 30m
歴史
 明治4年(1871)度会県に属するとき、下流の小川村と区別するため、それまでの村名、小川村を改称して上小川村となった。
経緯
 小牧薩摩守は中村川中流に邸宅(小川城)を築き白口峠から中流までを監督していたようである。
書籍等
 ぐる~っとうれ史めぐり 現地看板 三重の中世城館
 http://kitaise.my.coocan.jp/syui_ure0701.htm
環境
 白口峠からの距離は直線で1Kmの所にある。
現地
 東半分は植林、西半分は萱に覆われている。南側には石積の道があり、一角に大きい土塁がある。
 土塁は石積で巻かれ頑強さを増したものと考えられる。上の大きな石はさらに高さを得るために利用されたものと考えられる。
感想
 館のある位置は遠望は利きにくく、高さのないことがハンディであって、それをカバーするのに工夫をされた館跡であると思われる。
嬉野教育委員会(当時)現地案内板の記述
 戦国時代伊勢国司北畠氏の栄えた頃に白口峠に関所がありました。この関守として小牧薩摩守等が当たっておりました。
 現在は水田となっているこの高台一帯がその宅跡であると言われています。なお方五米高さ四米程の四角な台地に巨大な四角形の石が二、三据えられてありますが恐らく物見櫓のあった基礎土塁であったと推測できます。
 又この場所に「駒が井」があり天正四年十一月二十五日薩摩守夢に白馬がこの井戸から出て、多気に向かって走り去ったと言われており寄しくも北畠具教が織田信長の謀略によって三瀬館(多気郡大台町)で殺害され伊勢国司北畠が滅亡した日であった。注3 注4 注5
注1
 小川城発掘調査報告から「小川城跡から15世紀から16世紀代の土師器鍋などが出土する。」を参照した。
注2
 100年前後ほど続いたと考えられる。(短くて77-長くて176年)
注3
 天正四年(1576)三瀬で北畠具教抹殺(49歳)、田丸で北畠家13人謀殺され、北畠氏滅亡する。
注4
 天正4年(1576)具教が三瀬御所で殺害されると信雄軍は白口峠、桜峠を突破し多気の城下に押し寄せ火を放ち、城にも登り霧山城は攻め落とされた。(12月4日)
注5
 この時、小牧薩摩守は生き延びた、と考えるか。
寺(万福寺)
 分岐に浄土宗鎮西派万福寺がある。本尊は阿弥陀如来の坐像。
    慶安元年(1648)湖誉和尚が私財を投じて創建したと伝え、上小川小牧谷より白口峠道と中村への本道との分岐点、小牧薩摩守の旧館跡に続く高台を背にした高石垣の上に建つ。
神社(宇氣比神社)
 明治3年(1870)宇気比神社と改称された
 永享12年(1440)の棟札が発見され、『嬉野町史』には「『和名抄』にある小川郷はこの地であり、式内社小川神社は当社でなかろうか」とある。また、「なお、当社の社殿の建築様式は、堀坂山より南の神社のほとんどが「神明造」であるのに対して「流れ造」で、大和の影響を受けていることが注目される。」と、社頭の案内板にあった。
地図

 

 


新城発見か!? 大阿坂城(仮称)

2018-06-03 22:24:41 | 松阪の城

 

 

城名
 大阿坂城(仮称)
読み
 おおあざかじょう
別名(候補)
 鳥丘城(とりおかじょう)
住所
 松阪市大阿坂町
築城年代
 南北朝時代(グループ内他説あり)
築城者 城主
 大宮氏か
形式
 丘城
遺構
 曲輪、竪堀、見張台
規模
 城域全体 東西200m×南北200m
 主郭 東西80m×南北70m
一族
  大宮氏は阿坂城城主である。(北畠大老)・大宮入道含忍斎、以下武蔵守(*1)、伯耆守、兵部少輔(*2)、大之丞(*3)、更に数名の名が北畠家臣帳に載る。
家臣
 北畠家臣
標高 60~90m 比高 30~60m
歴史
 この地は古くから中勢及び南勢を守る前衛地として重要視されてきた。それを証明するように歴史上の大きな戦いが何度も起きている。
経緯
  ① 1352年、南北朝争乱に初めて登場する。9月5日、細川元氏、伊勢国に入り南朝軍と戦う。10月4日、土岐頼康もこれに参陣し、阿坂城中村口に戦い南朝軍はこれを撃破する。
  ② 1415年、5月16日、室町(足利)幕府軍、北畠満雅が籠城する阿坂城を陥落させる。満雅が幕府軍を迎え撃った戦いで、兵糧を絶たれた北畠軍が山頂で馬の背に白米を流すようにして馬を洗う姿を演じて幕府軍を欺き撃退したことで白米城の異名を残す。後、和解が成立。
  ③ 1425年-1428年 満雅2回目の戦い 阿坂城で足利軍(室町幕府)に反旗をひるがえし、再び挙兵するが壮絶な岩田川の戦いで満雅討死。
  ④ 1569年、北畠具教のとき永禄12年の戦い。戦国時代、織田信長伊勢侵攻の攻撃により落城した。このとき大宮入道含忍斎、羽柴秀吉に討たれる。阿坂城は以後廃城となる。 
書籍
 周辺にある阿坂城、高城、枳城は市の発掘調査などによりたくさんの資料がのこるが、大阿坂城についての史料、資料はいまだ見つけていない。
 唯一、 「阿坂史跡マップ」(阿坂まちづくり協議会)の中に「鳥岡観音」とあり、それによると『明治地誌によると、、(永禄12年の戦いで亡くなった)大宮入道含忍斉の遺体を埋めた所で、鳥岡墓と称す』という一文がかすかなヒントを与えてくれている。
環境
  伊勢平野がくびれて細くなっている中勢部に位置し、南進する敵勢を迎え撃つにふさわしく、また多気に向かう中村川の入り口を守るに好都合な地勢である。三渡川の源流部でもあり西から東の伊勢湾に流れる川が堀となって守りを固めている。
 この大阿坂城の西1.4Kmに阿坂城(白米城、椎ノ木城)、南西1.2Kmに枳城、北0.5Kmに高城を見る。ちょうど枳城と高城の中間に位置し、これら三つの出城が連携して本城である阿坂城を守っている位置関係にある。
 枡形山から東に派生する主尾根の先端部舌状丘陵地にある。枡形山に登る南登城道の入り口を抑えているようである。
考察
 本城の阿坂城、出城としてすでに認定されている高城と枳城、そしてこの大阿坂城はそれぞれがみな形を同じくしていないことが特徴とも言える。
 先述したように200年の間に歴史上の戦いが幾度か行われたことによって都度、増改築されたかも知れない時間差による異なりなのか、あるいは大宮氏の多数の親族が北畠氏を守るためにそれぞれの特色を生かして親族ネットワークにより築城した結果なのだろうか。
 まったくの逆説として、本城の阿坂城を攻めるための羅城、つまり織田軍の陣城であるかも知れない、緊急的に造られた城かも知れない。そんな守りには強くなさそうな駐屯地としてだけの城なのかもしれない。
感想
 「高城」は大きく平らな曲輪を中心に周囲を高土塁で防御する居館形式であり、「枳城」は単郭プリン型で標高とその位置を生かした見張台的山城形式である。
 本城である「阿坂城」はその標高を生かした山城形式である。白米城の単郭プリン形と一方虎口や土塁を持つ椎ノ木城とは築城時期が異なるという説もあり、本城としての威厳を保つ。
 そしてこの「大阿坂城」はそれらとはまた違った形式で造られていると思う。城と決定づけるに必要な山城の必須オプション「堀切」「土塁」の姿は薄い。標高の低さもあって、とても守りに固いとは言い難い造りである。にわか造りの気配さえ感じる。
 また単郭プリン形のように単純明快ではなく、あちらこちらに施設が分散し、防御を集中させる意向は希薄でその点からも守りが固いとは言い難い造りである。
 東西に延びる丘陵の西側と東側の2か所に何段かの削平地を連ねた曲輪群を持ち、それがまるで人間が両腕で間の谷を抱えるようなロケーションとなっている。
 その城域は曲輪の配置から北に向かって防御をしているようにも見受けられる。
結論
 限りなく城に近い構造物であるが、とても素人の手に負える案件ではない。
追記
 平成30年6月5日 ある造園業の方にご同伴を願いこの城に入った。
 北の竪堀の途中にある大木の樹齢を推定していただくためである。
 結果は、樹種;椎木 樹齢200年から250年 実生 状態;肥沃な土壌で現在も健康な樹勢である。
 思惑の樹齢450年などの推定には至らなかった。竪堀が造られてから200年~250年後に実生で生えた椎木であると考えられる。
*1 下図、樋田清砂氏作成の「北畠氏家臣団配置図」によると、「阿坂政所・大宮武蔵守」と表示され、居城所在地不明となっている点、研究のヒントになりそうである。政所の表現からは居館風の施設が想像される。大宮武蔵守は家臣帳では大宮氏の2番目の位置付けである。これらのことと、周辺4城、阿坂城・枳城・高城・本城との関係付けの整理ができればと期待する。
*2 大宮兵部少輔;軍奉行
*3 大宮大之丞は大弓を引かせたらこの上なく達者で力持ちで、秀吉が阿坂城を攻めるとき矢で太ももを射抜かれたといわれている。
 最終章
 ここが山城と仮定した場合、山城の研究材料として格好の物件ではないだろうか。阿坂城館群として、中南勢の歴史観が塗り替えられるかもしれない魅力的な物件と思われる。

 これが平成30年6月6日現在の状況と心境である。

 

 


上小川城

2018-01-26 21:20:39 | 松阪の城

 

 👆 上小川城想像図

 

改訂版(2018-01-26)(2019-07-07)

城名
 上小川城
住所
 松阪市嬉野上小川町城山他
築城年
 室町期
築城者 城主
 北畠家臣帳にある「大久保佐兵衛督、同源五左衛門」か。
 あるいは、小牧薩摩守の可能性も捨てきれない。
形式
 山城
遺構
 郭、堀切(巾14m深さ3m)、切岸(南と東)
規模
 主郭は17m×8m程の平坦地
標高 480m 比高 120m
書籍
  嬉野史 (平成26年6月 文化財センター)
 南と東に切岸を備える。北側には巾14m深さ3mの堀切がある。柚原に抜ける道を押える意味があったのではないだろうか。
 中川駅周辺区画整理事業に伴う発掘調査報告書Ⅱ
 上小川地区の中村川左岸の標高480mの比高120mの丘陵上で17m×8mの単郭の主郭が設けられ、北西方向に延びる細長い尾根部には幅14mの幅広い堀切が1か所設けられる小規模の山城である。
 城が築造された方向は中村川に面するのではなく花園、蘭の方向に向き飯高郡域から一志郡域を警戒する山城と想定される。
 出土遺物などは未確認のため時期は不明であるが室町時代の遺跡であると想定される。
 中川駅周辺区画整理事業に伴う発掘調査報告書Ⅱ 嬉野史
現地
 上小川から西に向かう多気に抜ける道がある。その道の東方向直線上の山頂に城がある。登城道は上小川から花園に抜ける峠道からだと思われる。傾斜はかなり急で足場も悪いが峠からの距離はさほどでもない。
 小牧谷の中ほどに萬福寺(注1)があり、小牧薩摩守館と上小川城の道のりの中間に位置する。
考察
 嬉野史には「柚原に抜ける道を抑える」とあるが、一方他の資料では白口峠の番頭という記述もあるので含めて考えたい。又松阪市嬉野中川町にも館を持っていることから中村川の上流から中流域を守っていた武将と思われる。守備範囲は全長で歩いて約20Km、移動に半日かかるほどである。
感想
 峠道から斜面を登る。最初の急な傾斜を登り切ると削平地が現れるが頂上ではない。おそらく「出郭」と思われる。一呼吸おいて又上を目指すとプリン型の郭が見えてくる。切岸の高さは十分ある。舌状の小さい郭が下にありそこから虎口へと入る。主郭は小さながらも余裕のある広さを有する。北へ回るとこの城の規模としてはスケール感たっぷりの大堀切が北からの尾根を遮断している。柚原城とスケール、形状などよく似ている。
注1
 萬福寺は浄土宗鎮西派、本尊は阿弥陀如来の坐像である。慶安元年(1648)湖誉和尚が私財を投じて創建したと伝え、上小川小牧谷より白口峠道と中村への本道との分岐点、小牧薩摩守の旧館跡に続く高台を背にした高石垣の上に建つ。境内には薬師如来を祀る薬師堂があり、ほかに観音菩薩、勢至菩薩をはじめ日光菩薩、月光菩薩、地蔵菩薩や十二神将などの仏像が安置されている。
地図

各遺構詳細

 

見張台(周辺に崩れた石が散乱している)

 

堀切(堀切があることからこちらが城の背後と思われる) 

 

竪堀(傾斜が急すぎて観察に降りるには装備がいる)

 

大堀切(上小川城の注目遺構、主郭背後の大堀切) 

 

主郭(石造物は江戸時代のものと思われる)

 

馬出(主郭西側のエプロン状の削平地)

 

馬出の土塁(その入口に土塁と思われる高まりがある。現状で30センチ

ぐらいで崩れてはいるが、馬出の形状を成している。)

 

腰郭Ⅰ (写真ではわかりにくいが周辺よりここだけ削平された様子が伺える)

 

腰郭Ⅱ(ここは尾根を切り込んだ跡がはっきりわかる削平地)

 

出郭Ⅰ(かなり完成度の高い削平地。広さも有り実用的だったと思われる)

 

出郭ⅡからⅢ(ここだけでも一つの城として成り立つぐらい。二つの曲輪と

間の堀切と土橋、周辺の切岸が城と峠の守りを固めている証と思われる)

 

土橋 (そう思わないと思えないが土橋と考えたい)

 

出郭Ⅲ(主郭と同等の広さを持ち、峠に一番近いことからこの郭の重要性が

浮き上がってくる。峠番の上級役人がいたのかも知れない)

 

小牧薩摩守館跡(植林で全体像の分からないのが残念な館跡。周辺は石垣が

多用され長期に渡って住まいしていたと想像する。)

 

 


矢下城(付記 もう一つの矢下城)

2018-01-09 21:54:14 | 松阪の城

 

 

 初回登録2017.08.07

城名
 矢下城
読み
 やおろしじょう
住所
 松阪市嬉野矢下町
築城年、築城者、城主 不明
形式
 山城
遺構
 郭、堀切、帯曲輪、2条竪堀
規模
 中心は30m×10mの主郭
一族
 矢下御所と謂れ、北畠一族と思われる。
家臣
 小川城・上小川城の城主小牧薩摩守が家老を務める。
標高 134m 比高 70m
歴史
 矢下御所という名称も資料に出てくる。
書籍
 松阪市遺跡地図 嬉野史 
 中川駅周辺区画整理事業に伴う発掘調査報告書Ⅱによると 「中村川の中流域の川が山麓から平野部に広がったところに位置する山城で、下流部の森本城跡との関係を有する城跡であろう。」とある。
環境
 北方向から中村川を遡って来る敵に対して有効な場所。
現地
 切岸の急斜面その下に帯曲輪、西側斜面に向けて2本の竪堀。南北の尾根続きに堀切。平成26年6月10日(火曜日)文化財センター、嬉野史より
 平成28年3月23日 訪城。
 この日は城直下より直登をしたが、北尾根の堀切と石組みの門跡のような形跡が虎口に関係する施設と思われるため、本来の登城道は尾根北側の東善寺方面からあったと考える。
感想
 この城がある山は小さいながら急傾斜で足場も緩く悪いため攻めにくい。舌状の先端にあり当時は木立が無いことを思うと360度見晴らしが効く。
 嬉野史や同遺跡地図によると、この城の対岸にある安楽寺の裏山にも出城又は砦があったと示唆している。多気への街道を南北両面から守っていたとも考えられる。対岸の様子を調べてみたい。
 その間の谷に矢下御所の由来となる館なるものがあった可能性もあると思う。館跡などの探索も興味がある。

もう一つの矢下城

平成28年8月31日 遠景撮影 この地は常に逆光の位置にあり遠景の撮影が難しい。
 
平成29年10月26日 上尾根探索
平成29年10月27日 下台地探索
 以前より興味のあった、矢下城の対岸に嬉野市や同遺跡地図にて示唆されている、もう一つの矢下城について現地を見ることにした。
 26日、他の城を探索した帰り道、時間の余裕をみて訪城した。
 地理院地図に記されている登山道を中心に尾根と周辺を探索した。
 早速、削平地が現れてくる。石垣もある。それらが複数混在する。尾根を横切るように道もある。道の脇には小石の集積場もある。これらの集まる場所から上に登ると下から続く登山道だけが残り削平地などは出現しない。
 登山道は深く掘れた所や幅広の所があり、単なる登山道ではないと想像される。恐らく作業用の荷車ぐらいの行き来はあったのではないだろうか。炭焼きとか燃料用の材木の切り出しとかが雑木林から想像される。
 歩き出してから400m、この尾根で一番広いと思われる小ピークに着く。これ以上の標高の所に城跡があるとは想像されがたいのでここが終着点となる。
 小ピークは削平地とは言えない自然地形で岩石も不揃いにあり城跡とは言えない。早々に引き返す。
 今日踏査した部分は近世の畑地の開墾跡と思われる。尾根筋の道は作業用の道であると思われる。この日は日没も近く不案内な土地ゆえ撤退することにした。
 翌27日。
 昨日時間切れとなったもう一つの矢下城探索を行う。今日は山に向かって左側の台地を探索する。嬉野遺跡地図にて正にその「矢下城跡」の活字が記されている場所である。
 昨日と同じ尾根に向かう道の入口を通過、昨日見た削平地や石垣がある一帯を右に見て左に折れて進む。
 すると明るい広い台地に着き、すぐに人の手が入った感触を受ける。
 台地の上側には堀らしき窪みが尾根を横切るように続いているのを見る。その右端の方には大きな丸い窪みを見る。この窪みで瞬間に思い浮かぶのが炭焼きの窯跡であった。堀跡は炭焼き窯や作業場を雨水から守るもののように見受けられる。
 その場所の前方、尾根の下側は広く一部は削平がなされてはいるが全体的には尾根の自然地形で兵が駐屯できるほどの平地ではないと判断する。
 
 昨日の尾根と本日の台地の踏査から中村川左岸・矢下集落北側のもう一つの矢下城は無いと判断した。
 しかし嬉野史が存在を示唆していることから別の場所に何らかの形で存在することは考えられる。
 矢下御所とまで言われた館跡の存在の可能性は高く、神社や寺、およびそれら遺跡と名家と言われる屋敷跡など探索すると今回の北側の位置関係と相まって浮かび上がってくるものがあるのではないだろうかと想像を掻き立ててくれる。
 又新たな情報収集について気に留めておくことにする。
 

岩内城

2017-08-09 15:56:55 | 松阪の城

デジブック 『山城遺産 岩内城』

 

 

城名

 岩内城
住所
 松阪市岩内町
築城年
 室町時代
形式
 山城
遺構
 曲輪、堀切、帯郭、竪堀
規模
 東西100m×南北80m 兵の数約500人
城主
 岩内主膳正光安(北畠13人衆の一人)
標高
 180m
比高
 80m
歴史
 北畠は迎撃態勢の一環として岩内城には岩内御所一族(岩内主膳正光安)兵500を置き、信長の侵攻に対抗しようとした。信長は近隣の岩内城と阿坂城に降伏勧告(和睦案)を出した。岩内氏は国司の一族であるため回答を保留。「大河内城の考え次第である」とした。(追記;中世城館と北畠氏の動向より)信長公記に「滝川左近人数入れ置き是よりわきわきの小城へはお手遣いもなく直ちに奥へ、、とある。小城というのは岩内城、伊勢寺城、奥野城、岡ノ谷城、白山城辺りを言っているのでしょう。つまり北畠側から抵抗が無かったので、そこへ軍勢を遣ることもなく、まっすぐ大河内城へ向かったということです。(8月27日)
経緯
 岩内城は多気郡明和町にあったが大河内城の出城として松阪市の天ケ峰に移された。岩内光安の子息が2歳の時、北畠具親の養子となり北畠に改称
書籍
 三重の中世城館の不明城館ページ
一族
 岩内御所
 岩内氏の系譜は不明。顕豊-政治と続いた後、政治の戦死により一時廃絶。永正9年に再興される。
 岩内鎮慶(?) 父は北畠材親か?母は不明。岩内家を再興。木造俊茂から白粉代官職を奪った、岩内某と推定される。久我家木造庄の年貢未納に対し大御所具教とともに対応。  
  岩内国茂(?) 父は岩内鎮慶、母は不明。
   岩内具俊(?) 父は岩内国茂、母は不明。
    岩内光安の子息が2歳の時、北畠具親の養子となり北畠に改称した。
     後、具親敗走の時に光安は田丸城で殺され家は断絶した。
       光安の子息「玉千代」は北畠具親に養われ、成人し北畠荘門光吉と名乗り、北畠の遺臣に守られて伊勢山田に住まいした。
現地
 瑞巌寺跡と墓地の中間位に西登城口がある。金毘羅宮入口のの看板がある。突然、急坂となるが尾根にたどり着くまでの距離は少ない。
 尾根にたどり着くと石垣で造成された金毘羅宮がある。この辺りから城域と思われる。
 堀切ではなさそうな鞍部を超えてしばらくで頂部に着く。その尾根は細く大勢の人数は留まれない。
 しかし、曲輪は主郭、帯郭とそれぞれ明確である。主郭は狭いながらも2段に分けている。
 北側に尾根として続く主郭の切岸は当時の様子を物語っている。帯郭と竪堀がそこを守っている。
 尾根の先は堀切が大小2連ありどちらも明確である。上部の堀切は岩や石垣で造られている。
 この二つの堀切より北へ標高をたどるが城としての構造物は無いと判断した。一部道のようなものと未完成な削平地のようなものはあるがこれは後世の山仕事に関係するものと思う。
 主郭の南側を下るとこの城で一番大きい堀切がある。こちらは山の麓からの敵を防御する位置にある。
 その先には見張台とも思える小さな削平地がある。城の範囲はここまでと思われる。
 その下に大きな削平地があるが他の削平地よりキレイに残っているので後世のものと考えた。大日さんとして今も祀られている。
 松阪遺跡地図にも三重の中世城館にも著わされていない山城の発見である。これは松阪山城会の松本会長が種々の情報を元に自ら足を運んで確定されたものである。
感想
 岩内町にはもう一つの山城がある。ここより南東1Kmの山上にある天ヶ城である。過去に多数の学者の方々が岩内城ではないかと考えられた所だ。
 両城に関して記事が重複するのはそのためである。現状では岩内城と天ヶ城に分類整理することは困難である。
 この二つの山城は造られた時期が異なるのであろう。天ヶ城が古く、岩内城が新しいものと考える。
 このような発見はおそらくこれからもあるのだろう。なんと山城の興味は尽きないものだ。

地図

 


天ヶ城

2017-08-09 10:29:46 | 松阪の城

天ヶ城

平成29年8月9日 岩内城より天ヶ城に改定
城名
 天ヶ城
住所
 松阪市岩内町/伊勢寺町
築城年
 室町時代
形式
 山城
遺構
 郭、帯郭、土塁
規模
 35×40m 兵の数約500人
城主
 岩内主膳正光安(北畠13人衆の一人)
標高
 420m
比高
 310m
歴史
 北畠は迎撃態勢の一環として岩内城には岩内御所一族(岩内主膳正光安)兵500を置き、信長の侵攻に対抗しようとした。信長は近隣の岩内城と阿坂城に降伏勧告(和睦案)を出した。岩内氏は国司の一族であるため回答を保留。「大河内城の考え次第である」とした。(追記;中世城館と北畠氏の動向より)信長公記に「滝川左近人数入れ置き是よりわきわきの小城へはお手遣いもなく直ちに奥へ、、とある。小城というのは岩内城、伊勢寺城、奥野城、岡ノ谷城、白山城辺りを言っているのでしょう。つまり北畠側から抵抗が無かったので、そこへ軍勢を遣ることもなく、まっすぐ大河内城へ向かったということです。(8月27日)
経緯
 岩内城は多気郡明和町にあったが大河内城の出城として松阪市の天ケ峰に移された。岩内光安の子息が2歳の時、北畠具親の養子となり北畠に改称
書籍
 三重の中世城館の不明城館ページ
一族
 岩内御所
 岩内氏の系譜は不明。顕豊-政治と続いた後、政治の戦死により一時廃絶。永正9年に再興される。
 岩内鎮慶(?) 父は北畠材親か?母は不明。岩内家を再興。木造俊茂から白粉代官職を奪った、岩内某と推定される。久我家木造庄の年貢未納に対し大御所具教とともに対応。  
  岩内国茂(?) 父は岩内鎮慶、母は不明。
   岩内具俊(?) 父は岩内国茂、母は不明。
    岩内光安の子息が2歳の時、北畠具親の養子となり北畠に改称した。
     後、具親敗走の時に光安は田丸城で殺され家は断絶した。
       光安の子息「玉千代」は北畠具親に養われ、成人し北畠荘門光吉と名乗り、北畠の遺臣に守られて伊勢山田に住まいした。
現地
 北東端に10m四方の台状地があって、更にその北東側は崖になっている。南西側に巾3mの平坦地、10m四方の削平地へと続く。土塁、堀切は持たない。
 天ケ城と言われるだけあって近辺の山塊の中では険しい場所にある。御所ケ谷と呼ばれる谷をを登ってくると突き当りに構造物と思われる風景がある。食い違い虎口とも見受けられる。更にそこを抜けると土塁らしき筋が3条見受けられる。しかし学者の見解はそこには触れられておらず素人考えであろうか。
感想
 平成26年5月11日(日・晴れ)8:35~10:15  写真30枚ほど
 一人で御所ケ谷を登っていくと左の崖上で鹿がキーキーと泣き、声は谷を響きビックリする。
 今日は3度目のトライで2度目の訪城。1回目は準備不足もあって失敗し、前回は訪城したが写真を紛失し再訪した。
 やはりポイントは谷を登りきったところの土塁の並びである。3本の土塁が並行してそれぞれの存在を示しているがそれがどのように機能していたのかを想像できない。
 今日は初めてそこより奥、上の山を探索した。数分で鞍部に出る。右に行くか左に行くか迷うところであるが伊勢平野に近い方という判断で左を選択した。(右は観音岳への道らしい)
 あまり人が入った足跡はない。5分もすると頂部に着く。丸味を帯びた平坦地の三方に帯郭とでもいえるような幅5m未満の平坦地が構成して見える。東側から虎口らしき窪みが頂部に向って開いている。更に下方に帯郭のような平坦地がある。
 もう一度鞍部に戻るがここの構造が人為的である。堀と土塁の組み合わせで登坂を防御しているように見える。(堀切が埋まってしまったのかもしれない)
 鞍部から右を探索する。何にもない。道は奥に連なっているようだ。ずっと奥の山「観音岳」に向かうようだ。
 一部の資料ではもう一つのピークに岩内城が記されている。前回も見てそれらしきものは無いとわかっているがもう一度確認をしてみよう。
 水平移動なので鼻歌気分だ。天候もよくすがすがしい5月の陽気だ。いくつかの小さい頂部を超えて先端まで来たがやはりそれらしきところは今回も探せなかった。
 食い違い虎口らしき構造は想像を発奮させる。御所谷という名称も気にかかる。
地図

最終考察

 岩内町における山城は、Ⅰ期として岩内御所(御所谷)と詰城としての天ヶ城が造られた。城の造りは北畠氏の他の城とよく似ており洗練されているとは思えない。古いタイプの様子である。

 Ⅱ期として最近発見された標高の低い新岩内城が造られた。天ヶ城より残り方が明確である。堀切や竪堀を多用して防御性に優れていて低い標高でも守りを固くでき使用に際しても便利で現実的である。

 織田信長の伊勢攻めの折には下の岩内城が対応したのではないだろうか。


伊勢寺城

2017-08-07 23:29:25 | 松阪の城

伊勢寺城

ヤマレコ山行記録

 

岩盤を切り崩した堀切が西側を守る

 

城名 伊勢寺城
住所 松阪市伊勢寺町城
築城年 不明
築城者 不明
形式 山城
遺構 郭、堀切、空堀、土塁、土橋、帯郭
城主 小菅備後守のち久瀬氏(久瀬五郎左衛門尉)が入る。
標高 180m
比高 60m
書籍 三重の中世城館
環境  大河内城へ続く北からの道を守る位置にある。岡ノ谷城と白山城の組み合わせのように伊勢寺城も五輪山城と組み合わさっているような配置関係にある。こうやって雲出川より南の山裾にはいくつもの城が連なっている。
現地  地図の道を頼りに西から攻めようと思う。(等高線を見て楽そうであると判断)すぐ地図の道を見つけることができた。コンクリート舗装である。森林組合が見えなくなる頃、道から外れて山の傾斜に入る。
   すぐに一番西側の頂部に出る。もう尾根歩きだ。景色も覚えがあった。突然堀切を見つける。前回は見てない、気づいていない部分だ。もうすぐだ。頂部に出る。おやここは見覚えがある。主郭だ。
   主郭の背にあたるところに土塁がありその風景に記憶がある。間違いなく主郭だ。そこから順次下の郭に降りていく。
   二郭とは傾斜でつながっている。二郭と三郭は深い堀切がある。端に土橋がある。堀切に降りる。郭の下まで降りる。主郭の後ろに回ってみる。堀切だ。前回確認してないように思う。
   堀切から竪堀が見られる。谷の方向に向かって途中でなくなっている。
   郭は北の方向に向かって3連に連なっている。その東側が空堀と土塁になっている。三郭の北側も堀切で遮断されている。
   この城の見応えは郭の高さだ。10mはあるだろう。もう一つは二郭と三郭の間の堀切と土橋だ。伊勢寺城は十分見応えがある。でも小規模なので短時間で探索できる。来た道から外れないように帰る。
考察  五輪山城は伊勢寺城の出城だと推定する。
感想  2回目の訪城だが新たな発見があってよかった。1回目の訪城がいかにも稚拙であった。また写真を無くすという不手際もあったが今回挽回した。
地図  


矢倉山城

2017-08-07 23:28:52 | 松阪の城

 

城名
 矢倉山城
住所
 松阪市八太町・阿波曾町・射和町、矢倉
築城年 築城者 城主 不明
形式
 山城
遺構
 郭,堀切、竪堀、のろし台
規模
 主郭;東西約30m×南北約30m 不整円形
 城郭部;東西170m×南北100m
 門から城郭部までの尾根部長さ;280m
標高 164m 比高 北側120m、南側140m
書籍
 伊勢の中世182号 松阪遺跡地図
環境
 西麓の旧熊野道を見下ろす位置
 櫛田川の近くにあるが直接川との関係はないと考える。
現地
 西に走る街道から尾根伝いに登るが最初に見ごたえのある二股の土塁と間の堀部に出くわし驚く。
 尾根の途中に堀切、土橋があり最初に完成度の低い郭が出現する。虎口とも思える構造物も見られる。西の守りの重要さが感じられる。尾根を進むと直ぐ主郭だ。
 城跡は松阪市射和町、八太町、阿波曾町の境、標高164mの山頂に立地する。射和・阿波曽集落との比高差は約140m、八太集落との比高差は120mである。城の西麓には八太・蛸路から射和への街道が通る。(注1)
 城の中心には、東西約30m、南北約30mの主郭(A)がある。主郭の西から南にかけて帯郭(B)が廻る。主郭と帯曲輪の間には急な切岸が施され、比高差は西側で約6mもある。主郭と北西裾には深さ約50cmの溝状の遺構がある。帯曲輪の西側には段差や竪堀(C)が掘られる。帯曲輪の南側にも竪堀がある。帯曲輪はさらに東にも続いている。
 主郭の東には大規模な堀切(D)がある。堀切の深さは曲輪内側で約2.5m、外側で約1.5mである。さらに30m程東には堀切(E)がある。堀切の深さは内側で約2m、外側で約1mである。これらの堀切は城の背後を固めるために構築されることが多く、築城主体は東側(射和側)を背後と考えていた可能性がある。(注2)
考察
 矢倉山城の防御遺構は、主郭とその周辺の切岸、竪堀を持つ帯曲輪、堀切から構成されている。このような組み合わせを持つ城跡は、伊勢国中南部の雲出川流域(旧一志郡)、櫛田川流域(旧飯高郡、飯野郡、多気郡)の山間部に多く分布している。阿坂城跡の南郭など北畠氏が関与していたと考えられる城跡にも採用されている。矢倉山城跡もこれら一連の城郭群に属すると考えられる。
 防御遺構の配置から、城は西麓の八太・蛸路から射和・櫛田川流域に向かう道を正面とし、東の射和側を背後としている可能性がある。このことからその性格は八太・蛸路から射和への街道を抑えるためのものと考えられる。
感想
 西麓にある城への入口は他の城では見られない独特の形状をしている。伊勢の中世182号が指摘しているようにこの城が西麓の街道を抑えることが主目的の城だと位置づけると、この入口の独特の形は当時の関所の施設や風景を連想させる。
推察
 熊野道の監視と併せて神山城の西に位置し、のろし台があることから ネットワークも目的とした城ではないかと推察する。また北麓の戸垣内館の城主の詰城ということも含んで考える方がいいかも知れない。
 城の北・上蛸路町にある真生寺は当時大倉山中腹にあり北畠家の祈願所であったが永禄十二年(1569)の織田信長の大河内城攻のとき兵火にかかり焼失した。又下蛸路の真福寺も罹災したという。このことから同時期に矢倉山城が攻められたか焼かれたかしたと想像するのは易くあながち間違いではないだろう。
(注1)熊野道の旧道と思われる。
(注2)更に尾根の先80mには小型だが堀切が施され東の守りを固くしていることが分かる。
地図