☝ 満雅が山号額を揚げた真性寺
☝ 満雅が揚げたとされる山号額
☝ 北から見る島田城
☝ 馬出しか、北に突き出た丘陵地
城名 |
島田城 |
読み |
しまだじょう |
住所 |
松阪市嬉野島田町 |
築城年 |
15世紀か |
形式 |
居館 |
遺構 |
なし(ただし、堀切らしき道を挟んで馬出しらしき畑地を見ることができる) |
規模 |
北に位置する畑地を馬出しの機能を持つ城域とすると東西130m、南北100m。 |
城主 |
野村平三郎(弓組) 野村半十郎 |
家臣 |
北畠家臣(家臣帳に半十郎の名が載る) |
標高 40m 比高 7m |
歴史 |
応永九年(1402)伊勢三代国司北畠満雅は雨乞祈願して霊験あり、満雅大いに喜んで筆を執り龍谷山の山号額を寺に掲げたと伝えられている。 |
その後、天正四年(1576)兵火にかかり本堂以下焼失したが本尊及び熊野本地仏は難を免れ現存している。 |
真性寺掲示板より 平成7年3月 嬉野町教育委員会 |
書籍 |
松阪市遺跡地図 |
三重の中世城館では『勢陽五鈴遺響』から佐竹川北内匠助の名が上がっている。(嶋田城、不明城館として扱っている) |
環境 |
北に向けて防御した様子が伺える。幅150m、比高7mの田圃(当時は沼地?)が北東から西に向かって巡っている。背後の南は丘陵が西南の中村川に突き当たるところまで続き、ここは丘陵の東端であることが分かる。 |
現地 |
北の小山(おやま)標高180mに小山城があり視界は効く。南北に走る尾根筋で島田城と行き来はできる。 |
南を流れる中村川と北を取り巻く田圃(当時は沼地?)の間に位置し、東に向けて舌状に延びる丘陵の東端にある。居館といえども防御には自然を生かした適地である。 |
考察 |
史料は未だ見つけていないが、北畠満雅の家臣であったのかもしれない。そして、中村川に関係する武将であったと考えるのが一番近い予想と考える。 |
感想 |
遺構は何もないが比定地の門扉、石垣や白壁などを拝見すると、当時の様子を想像するには十分なロケーションであり風情である。 |
地図 |