音無山城
おとなしやまじょう
住所;三重県伊勢市二見町茶屋
築城者;伊勢三郎義盛
築城時期;12世紀
遺構;郭・土塁・井戸
標高;119m 比高;111m
感想;伊勢三郎に由来する城と言われるが800年ほど前のこと。
遺構の残り具合は800年にしては良い状況。12世紀のあと誰かが
リフォームをしたかもしれない。頂上まで道が整備されているのでお
子様連れでも楽しめる。
音無山城
おとなしやまじょう
住所;三重県伊勢市二見町茶屋
築城者;伊勢三郎義盛
築城時期;12世紀
遺構;郭・土塁・井戸
標高;119m 比高;111m
感想;伊勢三郎に由来する城と言われるが800年ほど前のこと。
遺構の残り具合は800年にしては良い状況。12世紀のあと誰かが
リフォームをしたかもしれない。頂上まで道が整備されているのでお
子様連れでも楽しめる。
渋見砦
しぶみとりで
住所;三重県津市渋見町
築城年;永禄年間(1558~1570)
築城者;乙部兵庫頭藤政
形式;山城
遺構;造成前(郭・堀・土塁・空堀)、造成後(記念碑)
規模;240m×160m
いくつかの郭を二重の空堀で囲むよう計画され近世の回の字型の縄張の
形式をとっていたが未完成であった。
標高;30m 比高;25m(当時)
現在は標高11mまで削平された。
歴史;永禄年間に乙部藤政が織田信長の伊勢侵攻に備えて平地の乙部城
から山地の渋見に移って築城した。
永禄13年藤政は織田信包に攻められ家所に逃れて自害したと言われ
る。 伊勢国司記略では織田軍の軍評に加わっていたと記されている。
また専修寺に入り剃髪したとも伝わることから本当のことはわからない。
現地;現在は団地の中に小公園を設け石碑を設けられているのみである。
南に開けた丘陵の真下を美濃屋川が流れその前には美田が広がる。
南南東200mにある小高い丘の頂は削平地であり見張り台でもあった
かの様相である。泰応寺の前の小さい崖が西に連なって西勝寺に至る
線が砦の南の境界線である。
池ノ谷砦
いけのたにとりで
住所;三重県津市垂水
築城年、築城者;不明
遺構;郭・空堀・堀切・土塁。4世紀末から5世紀初めの前方後円墳を利用
標高;50m 比高;崖下から43m
状況;伊勢湾を1.5Km東に望み眼下には参宮道を監督する絶好の地
にある。
考察;同じようなロケーションで南1Kmに小森上野城、同2.5Kmに小森
城がある。築造の体裁からも城主不明の情報からも城ではなく砦と思
わせる。
伊勢湾西岸有数の前方後円墳であり、古墳好きにも山城好きにも小
さいけれど見応えあり。桜の時期にもう一度訪れてもいい。
丹生城
丹生城堀切
にゅうじょう
住所;三重県多気町丹生
築城年;不明
築城者;不明
形式;山城
遺構;郭、堀切
規模;8m×15mの郭
城主;不明
標高;80m 比高;15m
歴史;多気町丹生は古代から水銀の産出地として栄え中世まで続いた。
13世紀には丹生右馬允(にゅううまのじょう)ー丹生左衛門三郎、
河田入道(こうだにゅうどう)ら悪党(反体制派)の名前が挙がっ
ている。(吾妻鏡)彼らは鎌倉時代後期に活躍していたと考えられ
る。(勢和村史)
また北畠氏の配下として豪商・長井家が存在する。彼らの内、誰
かの城ではないだろうか。
遺構考察;単郭で規模も小さいがプリン型の郭の傾斜はきつくハッキリ
している。切岸と考えてよい。北方面に続く尾根の動線を遮断する
大小2本の堀切の深さは浅くなっているが当初は郭と同じ高さ寸法
があったと思われる。南側にある階段は後世のものと考えられるが
主郭虎口は同じ位置だと思われる。郭の東側と西側の一部に通路と
思われる削平地が見られる。尾根続きで北東から東にかけて標高1
00mの山頂があるがまだ未制覇で関係が読めていない。
感想;ここに城跡があるという情報は全く知らないし山城の定義も理屈
も当てはまるかどうか分からないが削平地と堀切を見たらやっぱり
城跡としか思えない。今後の調査に期待したい。