三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

髯山のろし台

2018-07-24 15:03:34 | 古里の歴史

 

 

髯山狼煙台

城名
 髯山狼煙台
読み
 ひげやまのろしだい
住所
 津市美杉町下之川/松阪市嬉野小原町
築城年、者
 不明
形式
 狼煙台、見張台
遺構
 見張台(径 5m)、礎石、窪み
規模
 20m×20m
城主
 北畠氏
標高 687m 比高 410m
歴史
 北畠氏の時代
経緯
 ひげ山は火揚(ひあ)げの山から、なまって「ひげやま」、髯山と呼ばれるようになったと地元の話としていわれている。
 別名を篝嶽(かがりたけ)ともいわれ、北畠氏時代に山頂で篝火(かがりび)を焚いて四方との連絡をとったところでもあった。
 美杉村多気の篝嶽で焚かれた狼煙(ろうえん)は先ずこの髭山で受けて、松阪市後山の黒米城(こくまいじょう)、松阪市阿坂の白米城へ、そして堀坂山へと伝わりたちまちにして南勢の平坦部全体に通じたようである。
書籍
 一志郡史髯山の記録 伊勢の中世
環境
 中村川を上り白口峠に至るルートは北畠氏にとって重要なものであった。そのルート上の髭山の頂に狼煙台が存在していたとすれば北畠氏に関わるものである可能性が高い。
 西は霧山城、東は白米城が一望でき、のろしを上げるのに好条件の位置にある。
 しかし、美杉の多気は雨乞山が障害となって直接は見通せないのでもう1~2ヶ所の中継点が必要になってくる。白口峠の北側の雨乞山や同南側「篝火山」が有力と考えられている。
現地
 狭い山頂部に高さ1.5m~2m、その径5m程の切岸が施された不成型な台がある。中央辺りに髯山大権現の標柱と大日如来座像が置かれている。
 そこから一段下がった南東側の斜面を切り込んで石組みを三方に積んだ窪みがあり、開口は南東側、黒米城を向いている。ここで篝火を焚いたと思われる。
考察
 狭い山頂において見張台と篝火施設を備えるだけでもう余裕がないほどである。
 決して城を築こうという意思は見えず、のろし台としての機能のみであるといってよい。一部に髯山城という指摘があるがそれはない。
感想
 清水峠からの登頂は厳しい部分があり、注意を要する。鉄塔ルートは林道が開通してからの清水峠よりは新しい登山道で登りやすい。

地図

 

 


大倉山地蔵院跡

2018-07-09 14:56:32 | 古里の歴史

 

 

 

寺院名
 大倉山地蔵院跡 
読み
 おおくらさんじぞういんあと
住所
 松阪市上蛸路町
築年
 15世紀中頃か
形式
 山岳寺院
遺構
 削平地、櫓台、標柱石
規模
 本堂跡 40m×40m
宗派
 天台真盛宗(注1)
標高 148m 比高 真生寺の標高63mから85m
経緯と歴史
 「松阪市の指定文化財案内」78ページに記載されているNo,69-135虚空蔵菩薩坐像の一文に気になるところがあった。
 真生寺にある木造虚空蔵菩薩坐像(市指定文化財)は底に康生3年(1457)の墨書銘があるという。
 この真生寺は天台真盛宗に属し、大倉山地蔵院を称し、もとは南西1.2Kmの大倉山中腹にあったが永禄12年(1569)の織田信長の大河内城攻めのとき兵火にかかり、寛永2年(1625)頃、現在地へ移ったという寺伝が残されている。
 本堂は宝永2年(1705)に建築されたとある。
書籍
 松阪市の指定文化財案内
 気になったのは、「織田信長の大河内城攻め、、、、、兵火にかかり、、、、」という行(くだり)で、この近辺にある山城の顛末に参考になるのではないかという気がしたからである。
環境
 松阪市蛸路町と阿波曽町の間にある標高200m~230mの東西に延びる山塊の北側中腹にある。
 従ってこの寺院の正面は上蛸路町と考えられる。町から徒歩で1Km程度の山道で、井戸跡や石像があるといわれる大倉道があったというが今は所々寸断されており、重機で切り開いた道に沿って行くのが無難である。
現地
最初にたどり着いたのは小さな尾根の先端であった。そこには周辺のロケーションにそぐわない遺構が散在している。
 1.2m×2m、高さ50Cm程の石組の基壇が2基、方向を斜に構えた特異な配置で据えられている。周辺には祭壇への階段跡や低い石垣跡がる。東側の斜面には竪堀や、切通しが見られるが確定するには調査が必要と思われる。林の中には削平地と切岸がある。
 ここは寺院の入り口・山門跡かも知れない。この尾根の背辺りには本堂へ続く道があったと考えられるが重機によって切り開かれているのでかなり改変したと思う。
 小さい池を二つ右に見て谷川に沿うように重機によって切り開かれた道を行くと、その道は上の池の奥辺りで行き止まりとなる。
 その先は、谷川に沿って左(東側)へ向かうけもの道となる。谷の奥の行き止まりを左手斜面に取りつくとすぐに削平地に出る。
 40m四方の削平地の西の端、境内の先端には約1m程の一段高い櫓台と思える高台がある。現在は山の神が祀られているがその様子から山の神は後世のものと判断できる。
考察
 境内の外縁には石柱標識が数本見られた。頂部の平面には「寺」と刻まれたもの、「國」と刻まれたものが確認できた。おそらく寺院の領域を示したものと思われるが当時の物とするよりは製作などの質感から後世の物と考えた方がよいだろう。
 「國」は国であろう。射和の豪商「国分」家の國だとすると設置されたのは江戸時代以降になるのかも知れない。
 それにしてもここは寺院跡ということ、境界石柱標識は寺の領域を表していることは間違いなさそうである。
 先述のここから北250mの山門跡と思われるところも含めて、ここは櫓台を持つ大倉山地蔵院跡といって間違いないと思われる。
感想
 織田信長が大河内城攻めをおこなったとき、松阪周辺の寺院は軒並み兵火にかかっている。そのことから周辺にある城や砦は壊滅状態だったと思われる。
 この寺院に近い矢倉山城、阿波曽、、本郷の各城も攻撃され破壊されただろう。
 庄においては北畠の侍六騎が織田勢に襲われ櫛田川の淵で全滅したという謂れが残り血なまぐさい臭いがある。今もその場所に建つ「南無阿弥陀仏」の名号石は櫛田川を向いて鎮魂している。
 櫛田川流域ではそこかしこで織田軍と小競り合いをしたというが、今回大倉山地蔵院跡を訪ねてそのことが一層色濃くなった気がする。
 次回は上蛸路の麓より大倉道をたどり井戸跡や石仏を比定しながら当時の本道を探したい。焼失以前の様子が見えてきたら遺構の価値は一層上がることになる。
注1
 真盛上人
地図