☝ 川上城想像図
☝ 曲輪Ⅰ
☝ 曲輪ⅡからⅢ
☝ 曲輪Ⅲ
☝ 曲輪Ⅲから堀切Aと曲輪Ⅳ
☝ 堀切A
☝ 曲輪Ⅴ
☝ 曲輪Ⅴから曲輪Ⅵ(手前に堀切B)
☝ 堀切Bと曲輪Ⅴ
☝ 曲輪Ⅵ
城名 |
川上城 |
読み |
かわかみじょう |
住所 |
津市美杉町川上 |
築城年 |
不明 |
築城者 |
不明 |
形式 |
山城 |
遺構 |
曲輪、堀切 |
規模 |
尾根230mの長さに亘って、大小9つの曲輪と2つの堀切によって縄張された中規模の山城(注1)。 |
城主 |
日置氏弟(宮内少輔)か。 |
標高 572m 比高 230m |
歴史 |
応永22年(1415)北畠満雅一回目の挙兵の時、5月16日に阿坂城が攻め取られ、北畠軍は中村川をさかのぼり多気にこもって持ちこたえた。 |
一方同年6月17日、雲出川を遡った幕府軍に川上城は落された。(伊藤裕偉氏、「北畠氏領域における阿坂城とその周辺」『三重ヒストリー6号』) |
経緯 |
平成7年夏、皇学館大学考古学研究会の調査によって遺構が確認された。同10年5月に同会によって再調査が行われ、略測図が作成された。 |
書籍 |
三重の中世城館第19号 |
環境 |
霧山城、剣ヶ峰城が多気を直接的に防御するための城とするに対して、川上城は多気から西あるいは南への間道を抑えるための城という位置付けではないだろうか。 |
川上城が陥落したことによって幕府軍は、奥津から多気と、川上から丹生俣・多気という2つの攻め口が確保できたことになる。 |
現地 |
数メートルから15m位の尾根の幅をもつ山頂と付近に9つの曲輪を配している。 |
最高部の曲輪Ⅵの削平感があまりにないことがこの城の謎である。面積もあり最も削平感のある曲輪Ⅰが唯一というぐらい全体的に造りの完成度は低い。 また、曲輪の内側に2つの堀切が設えられている点も珍しい造りである。 |
考察 |
剣ヶ峰城が多気を守備する高機能な城とすると、川上城は直下の間道及び南の山の若宮峠、川俣峠などを守備する見張専門の機能を要求された城で、城自体の防御性よりもその位置自体(機動力)に意味があったのではないだろうか。 |
感想 |
伊勢の中世城館の記述に「全ての曲輪が見下ろせる山頂部に城郭関連施設が存在しなかったと考えるのも不自然であり、どこまでを城郭遺構として判断するかは今後の課題である」とあるように、曲輪の削平感の有る無しや出来不出来で、城であるか無いかの判断にまで及ぶのは、山城を考えるとき間違いを起こす可能性が有るのではないかと考えている。 |
全く、削平の無い曲輪が堀切で囲まれている山城が存在する。 |
注1 |
伊勢の中世城館では山頂部の曲輪Ⅵから西の施設を城郭と認めていないため、”小規模な中世城館”としているが、ここではそれらを全て曲輪と判断したので中規模となった。2つの腰曲輪の内部にある曲輪Ⅵである。 |
地図 |