三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

川上城

2021-01-31 22:26:35 | 古城巡り

☝ 川上城想像図

☝ 曲輪Ⅰ

☝ 曲輪ⅡからⅢ

☝ 曲輪Ⅲ

☝ 曲輪Ⅲから堀切Aと曲輪Ⅳ

☝ 堀切A

☝ 曲輪Ⅴ

☝ 曲輪Ⅴから曲輪Ⅵ(手前に堀切B)

☝ 堀切Bと曲輪Ⅴ

☝ 曲輪Ⅵ

 

城名
 川上城
読み
 かわかみじょう
住所
 津市美杉町川上
築城年
 不明
築城者 
 不明
形式
 山城
遺構
 曲輪、堀切
規模
 尾根230mの長さに亘って、大小9つの曲輪と2つの堀切によって縄張された中規模の山城(注1)。
城主
 日置氏弟(宮内少輔)か。
標高 572m 比高 230m
歴史
 応永22年(1415)北畠満雅一回目の挙兵の時、5月16日に阿坂城が攻め取られ、北畠軍は中村川をさかのぼり多気にこもって持ちこたえた。
 一方同年6月17日、雲出川を遡った幕府軍に川上城は落された。(伊藤裕偉氏、「北畠氏領域における阿坂城とその周辺」『三重ヒストリー6号』)
経緯
 平成7年夏、皇学館大学考古学研究会の調査によって遺構が確認された。同10年5月に同会によって再調査が行われ、略測図が作成された。
書籍
 三重の中世城館第19号
環境
 霧山城剣ヶ峰城が多気を直接的に防御するための城とするに対して、川上城は多気から西あるいは南への間道を抑えるための城という位置付けではないだろうか。
 川上城が陥落したことによって幕府軍は、奥津から多気と、川上から丹生俣・多気という2つの攻め口が確保できたことになる。
現地

 数メートルから15m位の尾根の幅をもつ山頂と付近に9つの曲輪を配している。

 最高部の曲輪Ⅵの削平感があまりにないことがこの城の謎である。面積もあり最も削平感のある曲輪Ⅰが唯一というぐらい全体的に造りの完成度は低い。

 また、曲輪の内側に2つの堀切が設えられている点も珍しい造りである。

考察
 剣ヶ峰城が多気を守備する高機能な城とすると、川上城は直下の間道及び南の山の若宮峠、川俣峠などを守備する見張専門の機能を要求された城で、城自体の防御性よりもその位置自体(機動力)に意味があったのではないだろうか。
感想
 伊勢の中世城館の記述に「全ての曲輪が見下ろせる山頂部に城郭関連施設が存在しなかったと考えるのも不自然であり、どこまでを城郭遺構として判断するかは今後の課題である」とあるように、曲輪の削平感の有る無しや出来不出来で、城であるか無いかの判断にまで及ぶのは、山城を考えるとき間違いを起こす可能性が有るのではないかと考えている。
 全く、削平の無い曲輪が堀切で囲まれている山城が存在する。
注1
 伊勢の中世城館では山頂部の曲輪Ⅵから西の施設を城郭と認めていないため、”小規模な中世城館”としているが、ここではそれらを全て曲輪と判断したので中規模となった。2つの腰曲輪の内部にある曲輪Ⅵである。
地図


剣ヶ峰城

2021-01-29 23:22:09 | 古城巡り

 

☝ 主郭

☝ 曲輪2

☝ 堀切 1

☝ 掘切 2

☝ 堀切 3

☝ 主郭土塁

☝ 窪みと溝

☝ 主郭土塁

☝ 主郭の中でも護りの堅固な中心部分

☝ 主郭から70Mの所にある削平地

☝ 主郭から95Mの所にある土塁

 

城名
 剣ヶ峰城
読み
 けんがみねじょう
住所
 津市美杉町川上/奥津/上多気
築城年
 不明
築城者 
 不明
形式
 山城
遺構
 曲輪、土塁、堀切
標高 723m 比高 460m
経緯
 近世に描かれた『多気城下絵図』では、「剣ヶ峯城」「天峯矢蔵」「大峯城」「天峯城」などと呼ばれ広く知られていた。
 伊勢国司紀略に「大和口の見付け城の跡、剣が峰の上にあり。御所の南方なり。」という記述がある。
 近代になって、その存在が忘れ去られてしまい、ながらく不明城館として扱われてきた。
 平成6、7年度に皇学館大学考古学研究会が再発見し測量を行った。
 平成11年5月には伊賀中世城館調査会によって測量図が発表された。
 同年秋に伊勢中世城館研究会によってさらなる調査が行われた。
書籍
 伊勢の中世城館第13号
環境
 奥津の消防署との比高は460mとなる。
 霧山城の南方に位置しその距離は2.8㎞で見通しは効く。また、川上城はさらに南方3.2㎞のところにあり同じく視界は効く。
 霧山城と川上城の見通しは山に遮られ効かない。
現地
 細長い尾根にある主郭の南西に虎口がある。土塁とエプロン状の平地から柵を設ければ馬出となる形状を整えている。
 主郭を4方向の尾根が取巻いてその内3方向には堀切が備わる。どれもいまだに残り方が良好である。
 その一つ北西側尾根からの守りをするのであろうか、主郭に土塁が設けられている。岩盤の露頭がそのまま利用されている。
 土塁に接する位置で曲輪を横断するように溝があり、溝の先には丸い形の窪みがかすかに見られる。何を目的としたのか興味深い。
 主郭の北側には見張台と思われる高まりがあり、その外側には剣ヶ峰城最大の堀切がある。北側がこの城の背後なのであろうか。
 『伊勢の中世城館第13号』では、「南東の尾根には遺構がないことを確認」としているが、主郭から70mの所に削平地が95mの所に低い土塁を確認した。この尾根は唯一堀切が設けられていない尾根でもある。また、杉峠(番所)へのルートであり、何らかの関係が想像される。
考察
 城の西、北、東には重要な街道がある。また、南側には杉峠があり、中世には番所があったとされており、東西南北を見張り、かつ川上城への連絡ルートとしても機能していたのではないだろうか。
感想
 この城は重要な位置にあることがよくわかるが如何せん、比高がありすぎて城に勤めた武士たちの苦労が伺われる。
 奥深い山城につき単独での訪城は避けた方がよい。できれば山城経験者の引率による訪城が望まれる。
余談
 津市の遺跡地図が示す剣ヶ峰城は東にずれているので注意がいる。
地図

この日は訪城日和であった。

辛い山行を紅葉が癒してくれて、メンバー全員堪能した。