経ヶ峰という山がいくつかあるようだ。
内二つは既に訪れた。
一つは津市安濃町、美里町、芸濃町が接する山頂にある。標高890m。
かつては”安濃ケ岳”と呼ばれていた。
その昔、長野家家臣・進藤左金吾が山頂に「大般若経百巻」を埋経したことから経ヶ峰と呼ばれるようになった。
(現地山麓の経ヶ峰ハイキングコース案内図より抜粋)
もう一つは伊勢市朝熊町の朝熊山にある。標高540m。
近世に至るまでこの辺りは杉や桧の巨木がうっそうと茂り、昼なお暗いほどであった。
明治27年老樹の根元から承安三年(1173)銘の陶製経筒が出土し、経塚の存在が知られるようになった。
(現地朝熊山経塚説明板より抜粋)
何れの山も経筒を埋めたことによって経ヶ峰と呼ばれるようになった。
そして津市の経ヶ峰はその周辺が「経ヶ峰城」と呼ばれるようになった。
一方伊勢市の経ヶ峰はすぐ傍の朝熊ヶ岳が「朝熊ヶ岳城」と呼ばれるようになった。
古城めぐりが生きがいの吾輩としては気になる存在である。
👆 グーグル地図による津市の経ヶ峰に示される「経ヶ峰城跡」
👆 グーグル地図による伊勢市の経ヶ峰近くの朝熊ヶ岳に示される「朝熊ケ岳城跡」
津市の経ヶ峰に示される「経ヶ峰城跡」
伊勢市の経ヶ峰近くの朝熊ヶ岳に示される「朝熊ケ岳城跡」
城はあったのだろうか。城と呼ばれる所以は何なのだろうか。
両山とも展望が効くことから見張台・狼煙台の可能性は高い。
見張台や狼煙台を目的とする砦があったとしても不思議ではない。
或は経塚を守る、祀る、祈るために人が介在しそのための施設が
設けられて砦化したとも考えられる。
だが埋経信仰が盛んだった時代と山城が必要だった時代の時間軸の差が
気になるところでもある。
朝熊ヶ岳城跡は大きく改変されている。
経ヶ峰城跡も少なからず改変されているようだ。
結果、残念なことに両方とも城の痕跡は 見つけられなかった。
伝承としての城跡であろう、と結論付けた。
グーグル地図に城跡の表示が出て各種の城リストには記載がないという
視点から見た場合、気になるものがもう一つある。
伊賀市の霊山に示される「霊山城跡」である。
霊山は発掘調査によって山岳寺院「霊山寺」があったことが明らかにされた。
しかし、霊山城については定かではない。
霊山寺は天正伊賀の乱で織田軍に焼き払われたという。
その際、僧兵が防御のために戦ったという想像はそう外れていないと思われる。
このことが霊山城の伝承につながったのではないだろうか。
経ヶ峰城跡や朝熊ヶ岳城跡とはいきさつが異なる点である。
ある山の頂が
9世紀~12世紀~;山岳寺院として崇め奉られた。
12世紀頃~;埋経信仰が盛んとなりご当地の適度な山の頂はその象徴となり得た。
14世紀;南北朝時代となり各地で戦が始まった。最初の防御の考え方は高さであったことから、
ご当地の適度な高さをもった山は「山城」を築くのにうってつけであった。この時、
ご当地の適度な高さをもった山は既に過去から崇め奉られて山岳寺院があったり
経塚があったりしたが、そのこととは直接関係せずに詰城としての必然から山城は
造られていった。
1600年;関ヶ原の戦い。以降徳川政権により山城の必要性は無くなった。