松阪市飯南町粥見に史跡柳瀬観音がある。
入口の階段右側に案内の看板がある。
あらためて活字に起こしてみる。
「史跡 柳瀬観音
中世末期の戦国時代、篠山城から落ちのびて、柳瀬の地に住んでいた野呂兵庫頭が
持仏を埋めて大和へ去り、元和三年村人が発見して深田金助らがこの観音寺を創建し
たと伝えています。
現在は無住のため荒れ果てていますが、大正時代まで芝居小屋が假設され、しばし
ば興行されていました。附近には武将館ゆかりの地名がいくつか残されています。
飯南町文化財調査委員会」
である。
中世城館ファンとしては見過ごせない情報が幾つかある。
1、中世末期の戦国時代に、篠山城から落ちのびて、柳瀬の地に、野呂兵庫頭が、
住んでいた。
2、附近には、武将館ゆかりの、地名が、いくつか残されている。
以上9つのキーワードがみられる。
飯南町史には以下の記述がみられる。
1、柳瀬の北山麓には中世の山城らしき跡も残り、武将在郷のことも決して虚構と
は言えないのである。(p, 1452 )
2、中世期になると、北畠氏の支配下となり、末期となって柳瀬には北畠の臣、
梁瀬兵庫頭が城を構えて城主となったという。その場所は観音寺より約500mほど
東にある山裾の地と伝えられ、門前と呼ばれている。(p,246)
3、また観音寺縁起に「当国粥見の祭主野呂兵庫頭平忠高(後、梁瀬兵庫頭)とあ
り、粥見の支配者であったことをうかがわせている。(p,246)。
4、出鹿の中山は、北畠の家臣中山三衛門義高なる者が、信長の北畠攻略後、一族
と共に立てこもった場所であると伝えている。(p,247)
以上、またいくつかのキーワードがみられる。
場所の確定
カシミール3D(左図)、赤色立体地図(中央図)、Google空中写真(右図)から
ある地点を見出した。
Google空中写真が茶畑を映し出している。この辺り一帯は南に向けての緩斜面とな
り、お茶の生育に好都合な地勢と思われる。
その中の一カ所だけは他と異なる様相を示している。現地の風景からは判別しがた
いが、カシミール3Dや赤色立体地図からは他との違いが明瞭に浮かび上がる。
念のためこの地点をカシミール3Dの断面図で確認してみる。
黒い線の部分の断面図を西から順に下図に示す。
西側断面図☝
中央断面図☝
東側断面図☝
上図から、中央の断面図にだけ水平な部分を見い出せることが分かる。この水平な部
分と同じ様相を示す場所はこの付近一帯には見受けられない。
手前から☝
この部分☝
他は傾斜地☝
また、この場所は観音寺から東へ400mのところにあり、飯南町史が指摘する500m
とは100mの差があるが、500m周辺にはそれらしき様相が無く誤差と考えたい。
更に隣接する南の区画も、他とは異なって傾斜がほぼ無いといってよいと判断で
きること、道が付帯することから同じ城跡の一部かもしれない。ここを住民のご老人
達は「門坂」と呼んでいる。飯南町史は「門前」と記しているが、おそらくこの辺と
いうくくりでは間違いなさそうである。当該地の大きさは東西50m×南北100m
ほどである。他に遺構らしきものは見当たらない。
案内看板では「野呂兵庫頭」であり、飯南町史では「梁瀬兵庫頭」とされている。
土地の名前を優先して「梁瀬兵庫頭城跡」とした。
粥見には他に、白粥城と言う伝承もあり、また粥見神社の北側には別の山城遺構ら
しき場所(出鹿砦又は粥見城)もあり、まだまだ全体像を整理したとは言えない状況であ
るため、今後の整合性を予見して、武将名を冠した城名とした。
柳瀬兵庫守館跡 縄張図☝
尚、郷土史家小林孚(こばやし・かえし)氏が1982(昭57)年にこの地を訪れ結論として
「見聞をして後考の資としたい」と締めくくり『北畠国司縁城』に記している。
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