髯山(ひげやま)の記録
北畠時代の「狼煙場(のろしば)」・「見張場(みはりじょ)」跡で、いまも山頂三角点の近くに礎石(そせき)と狼煙場となった穴があり、三方を石垣で囲んで東方に向けて口を開けている。
“ひげ山”は、火(ひ)揚(あ)げの山であることから、髯山と呼ばれるようになったといわれている。
海抜六八七・七米の髯山は、かつての美杉村多気の霧(きり)山(やま)城・松阪市阿坂の白米(はくまい)城・度会郡大湊(おおみなと)が一眺でき、戦時の伝達手取りとしての“のろし”をあげるのに条件がピッタリだったといわれている。
また、別名を篝(かがり)嶽(たけ)ともいわれ、北畠氏在域時代山頂に篝(かがり)火(び)を焚いて四方との連絡をとったところでもあった。
美杉村多気の篝嶽で焚かれた狼煙(ろうえん)は先(ま)ずこの髯山で受けて、松阪市後山の黒米(こくまい)城・松阪市阿坂の白米(はくまい)城へ、そして堀坂(ほっさか)山へと伝わりたちまちにして南勢(なんせい)の平坦部全体に通じたのである。
わが国の最も原始(げんし)的な信号法は「飛ぶ火」即ち「烽火」であった貴重(きちょう)な史実(しじつ)を後生に残していきたい。
平成五年三月
嬉野町大字小原
一志郡史より
(以上 現地説明版より)
髯山狼煙台
地図