二つの城の距離は200m、しかしその歴史は200年の差。
そして、第三の郭群。
一体、どうなっているんだろうか!?
👇 南から遠景(合成写真)
位置関係を軌跡で見ると 👇
城名 |
岡本城 |
住所 |
津市芸濃町岡本 |
築城年 |
13世紀初め |
築城者 城主 |
岡貞重 |
形式 |
山城 |
遺構 |
曲輪、土塁 |
規模 |
東西120m×南北60m |
一族 |
若菜五郎盛高に属する |
標高 50m 比高 10m |
歴史 |
若菜五郎らと元久元年(1204)に乱を起こし落城した。 |
経緯 |
平家残党は20年の雌伏を経て、将軍後継問題で揺れる幕府の動揺に乗じて建仁3年(1203年)12月、若菜五郎盛高が軍勢を率いて伊勢国の守護である山内首藤経俊の舘を襲撃し反乱の兵を挙げた。(三日平氏の乱(鎌倉時代)) |
書籍 |
三重の中世城館 |
岡本の岡八郎貞重および若菜五郎ら平家の一党が元久元年(1204)に乱をおこしここに立てこもり、京都守護の平賀朝雅の軍により、一党80人が切られた。口伝によればここより落ちて間道伝いに高野尾の三月田に出て自殺したという。 |
芸濃町史・上巻(P238) |
岡本城は岡本の集落の北西方、萩野との境に近い丘陵ににある。「勢陽五鈴遺響」によれば、元久元年の三日平氏の乱の際、平氏の一党、岡八郎貞重父子などがたてこもった城という。城跡は、安濃川左岸の丘陵地帯の中で沖積地に近い標高55mの比較的小さな丘陵の頂部に立地する。中央に東西にのびる土塁が残り、やや間をあけて南にこれに直行する方向の土塁がある。これらの土塁によって区画された四つの郭が遺存している。 |
感想 |
三日平氏の乱(鎌倉時代)の城 |
西方の萩野城は15世紀の城、この岡本城は13世紀の城、築城時期は200年程の隔たりがある。しかし、時を超えて距離感だけで想像するとやはり二つの城は有機的な繋がりがあったと考えるのが自然である。 |
両城の中間位置よりやや東方に第三ともいえる郭群がある。これがその解を解く手掛かりになるのかもしれない。他の山城では見かけない、三点関係のここだけの風景になっていることが注目である。
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城名 |
萩野城 |
住所 |
津市安濃町萩野 |
築城年 |
応永年間(1394~1427) |
築城者 |
萩野氏 |
形式 |
山城 |
遺構 |
郭、虎口、削平地 |
規模(三重中世城館) |
60×50m 面積は650坪 城跡は106.5m×20mの地と、25m×28mの広さの地を、巾1mの土塁で囲み、その中の中央に18×11.4mの地を土塁で囲んだ地などが残されている。 |
城主 |
萩野弥左衛門 |
一族 |
北畠氏家臣 |
標高 70m 比高 30m |
歴史 |
応永の頃(1394~1427)、萩野弥左衛門がここに居住し、北畠氏に属していたが其の後、廃せられた。又一説には、永享年間(1429~1440)に国司北畠満雅が兵を起したとき、関の一党が一味して、ここに立てこもったという。 |
書籍 |
三重の中世城館 芸濃町史 |
芸濃町史・上巻(P236) |
萩野城は「伊勢名勝志」によれば応永年間に北畠の臣、萩野弥左衛門が居た所とされ、萩野字大屋垣外にあり面積650坪で周囲に石塁をめぐらしているとされる。しかし、同所にそのような遺構は遺存しない。地元の古老によれば安西神社東方の標高約70mの丘部頂主郭周辺に所在したという。現在は削平されて忠魂碑の建つ広場となり遺構は遺存しないが地形的にも納得でき得る場所である。 |
環境 |
安濃の平野部の真ん中にある丘陵の北方に位置する。同じ丘陵にはやや南東に安濃城があるがこの時期にはまだ出来ていない。そして直近には岡本城と接する位置にあるが関係を明らかにすることはできない。 |
現地 |
公園として改変されているが大きくは城郭を想像する事ができる。主郭には虎口と見張台があったようだ。登城道の左右には削平地があり郭として機能していたと思われる。主郭背後の高まりは遺跡とされている。 |
考察 |
特筆すべきは萩野城と岡本城の位置関係である。背中合わせの位置にありながら関係は明らかでない。 |
感想 |
北畠満雅反乱の時代の城 |
東方の岡本城は13世紀の城、この萩野城は15世紀の城、築城時期は200年程の隔たりがある。しかし、時を超えて距離感だけで想像するとやはり二つの城は有機的な繋がりがあったと考えるのが自然である。 |
両城の中間位置よりやや東方に第三ともいえる郭群がある。これがその解を解く手掛かりになるのかもしれない。他の山城では見かけない、三点関係のここだけの風景になっていることが注目である。 |
地図 |