松阪市御麻生薗(みおぞの)町本郷に本郷浅間山がある。標高249m、比高140m程である。附近での山塊比較では大明神山(標高399m)に次いで大きく、櫛田川の行く手を大きく南側へ蛇行せしめている山である。
頂上には本郷浅間神社が祀られている。曲輪の広さは東西、南北それぞれ20m弱程である。社の基礎や祠(大日如来坐像)の造作は石組で行われている。頂上からは西の展望がよく根木峠(2Km)や大明神山(2.7Km)が良く見える。
櫛田川を挟んだ南側の山頂には西之城(1.7Km)、東城(1.9Km)が連なるが現在は木立によって見ることはできない。
登城道の入口には上山城がある。上山城の形態が居館であることを加味すると浅間山はいざという時の詰城という解釈も成り立つように思える。
この曲輪にたどり着く90m手前に尾根を遮断する堀切がある。堀切は西に向かって竪堀となって斜面を落ちている。山城としての遺構らしきものはこの堀切と曲輪だけである。
神社を守るために必要とされた堀切なのだろうか。堀切と云えば山城には付き物である。山城を想定すると一番攻められやすい尾根を断ち切るためにはこの堀切は必要であったと思われる。
本郷浅間山を大明神山方面から見た山城の想像図。直下に庄浅間山、川向かいに佐伯中浅間山が見て取れる。
本郷の集落より一つ下流の庄集落にも浅間山があり、同じように堀切をもっている。庄浅間山は複数の曲輪を持っているが規模は小さく、どちらも似たような浅間神社と言える。
堀切の存在に注目して、これら浅間神社の前身が山城であったと仮定するならばそう不思議でもない気がする。単郭、ないしはそれに近い小規模な曲輪群と一つの尾根を遮断する堀切とそれに続く竪堀が主な遺構であるが山城としての最小条件としては成り立つところである。
隣同士の集落ということでよく似た山城仕様、施工技術であり、手法であると言える。
これらが山城とした場合は、伊勢国司北畠氏との関係はどうなんだろうか。
薄いように思われる。北畠本体、または臣下の城というよりは、集落同士のいさかいや争乱などの詰の城という位置づけがふさわしいのかも知れない。
あるいは近津長谷城のような本城のネットワークとしての見張台であったのかも知れない。櫛田川流域に山城が点在していることは既に知られるところであるが、未だ確定されていない山城遺構があっても不思議ではない。
少し想像が過多になってきたところで纏めとしたい。この二つの浅間山にある神社は前身が山城であったかも知れない。又は神社と山城を併用していたのかも知れない。神社だけの為に堀切を造り込んだわけではないと考える。史料で城、あるいは砦などの記述が見つかれば積極的に山城と表現してもよいが、今のところは想像の域を脱することはできない。
ヤマレコ記録
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-1372127.html
追記;
多気町佐伯中に浅間山があり、大日如来坐像が祀られている。このことも今後おおいに注目したい。