南亦山 山行
ヤマレコ山行記録 (ルート、標高など)
余談 渡会の獅子ケ岳へ登る準備をして出かけたが風力発電の工事で車両は通行止めとのこと。急遽、以前から考えていた大内山の南亦山に変更した。
順調に山行を終え駐車場に戻ったがなんと車のエンジンが掛からない。恐らくスモールランプでも点いていてキーを抜いた時アラームに気づかなかったのだろう。仕方ないと思いJAFに電話をしてみるが携帯の電波は「圏外」を示している。ガクッ。携帯のアンテナを見ながら辺りをうろうろしてつながる場所は無いかと必死だった。無理!
いろいろあったが結局2時間半後にJAFに助けてもらえた。
こういうところへ行くときはもっと念を入れて準備しなければ!!
辛怒田城(からぬたじょう)
なんと変な城名である。
地理院地図で(怒田)を検索すると
怒田 8件 怒田沢 3件 怒田畑 上怒田 下怒田 粟怒田 古怒田 上赤怒田
赤怒田 柴怒田 怒田野尾 怒田場 怒田ノ尻...各1件 合計 怒田に関する地名は20件以上。
読みとしても「ぬた」と「ぬだ」に分かれるようだ。
そして辛怒田、三重県熊野市にある辛怒田山の山頂に辛怒田城があるという。
標高638mとある。何とも気になる城である。
平成29年3月29日 山岳会の引率の下辛怒田城を訪城した。
スライド 訪城をお考えの方はくれぐれも安全にご配慮を!!
城名 | 辛怒田城(からぬたじょう) | ||||
住所 | 熊野市飛鳥町佐渡神山、井戸町大馬字丸石 | ||||
築城年 | 天正16(1588) | ||||
築城者 | 羽柴秀長(堀内氏、吉川氏) | ||||
形式 | 山城 | ||||
遺構 | 郭、堀切、石垣、石組跡 | ||||
規模 | 90×40m、兵3,000人 | ||||
標高 | 638m、東西に延びた長い尾根は布陣するに適当な地形 | ||||
比高 | 375m | ||||
歴史 | 羽柴秀長は北山郷民蜂起の懲罰出兵のため堀内氏善、吉川平介・三蔵の三氏に北山郷鎮圧を命じる。三氏は辛怒田山に城を築いて攻撃の準備をする。吉川兄弟の不備により藤堂高虎が交代で参陣し、五郷・神川・西山郷を制圧する。 | ||||
経緯 | |||||
天正の一揆 | |||||
西暦 | 月 | 日 | 経過年数 | 経緯 | |
天正13 | 1585 | 秀吉、紀州攻略を実施し、秀長に与えた。 | |||
羽柴秀長は太閤検地を実施しようとしたが北山郷民が反対した。 | |||||
天正13年頃の全国での太閤検地の実施率は11%程度でまだ一般的ではなかった。北山郷民が反対したのも想像される。 | |||||
天正14 | 1586 | 8月 | (翌年) | 奥熊野の地侍たちが蜂起した。 | |
8月 | 28 | 日 | 秀長自らが紀伊へ出陣して討伐に当たった。 | ||
9月 | 9 | 日 | 合戦①。 両軍は多くの戦死者を出した。 | ||
9月 | 14 | 日 | 秀長重臣の伊藤掃部助が配下の兵もろとも討死した。 | ||
9月 | 23 | 日 | 羽柴側の犠牲は多かったがなんとかこの日までにほぼ制圧した。 | ||
冬 | この冬大雪のため一揆衆への処罰は中途半端になった。 | ||||
天正15 | 1587 | (2年後) | 一揆衆は降伏して赦免を乞うたが秀長は許さなかった。 | ||
天正16 | 1588 | 9月 | (3年後) | 合戦② 秀長は徹底的成敗の懲罰出兵のため堀内氏善、吉川平介・三蔵の三氏に北山郷鎮圧を命じる。 | |
三氏は大馬谷に入り大馬神社の北の辛怒田山に城を築いて攻撃の準備をする。 | |||||
10月 | 16 | 日 | 吉川兄弟は、新宮神倉山に火をつける。後、その罪により解任される。 | ||
交代で藤堂高虎佐渡守が参陣する。 | |||||
高虎は、五郷の岩茸倉山城を攻撃する。続いて神川から西山郷を制圧した。 | |||||
12月 | 吉川平介は秀長の命令で熊野の木材2万本を大阪にて販売していた。この時熊野統治においての不正が発覚し大和西大寺で処刑され、洛中に首を晒された。 | ||||
吉川平介は2度も不祥事を起こし秀吉の激に触れた。なかなかの悪者である。 | |||||
高虎、一揆鎮圧の拠点として赤木城を築城開始する。 | |||||
天正17 | 1589 | (4年後) | 赤木城完成 | ||
5月 | 多数の農民が田平子峠で斬首される。 | ||||
周辺の城;辛怒田城・岩茸倉山城・平城・寺谷城・弓場城・神上要害山城・万重寺城・葉田城・長尾城・赤木城 | |||||
慶長の一揆 | |||||
慶長19 | 1614 | 12月 | (29年後) | 大阪冬の陣で手薄になった浅野氏に対して北山の地侍・山伏らの蜂起 | |
大阪冬の陣が和睦すると幕府は浅野氏に一揆鎮圧を命じる | |||||
新宮に戻り奥熊野へ侵攻し20日足らずで大沼村の戦いで殲滅する | |||||
慶長20 | 1615 | 1月 | (30年後) | 残党狩りが行われ田平子峠で363名が処刑された。 | |
4月 | 日高・有田・名草において紀州一揆が起った。 |
山行記録
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草生城(くさわじょう)
城名 | 草生城 |
読み | くさわじょう |
住所 | 津市 安濃町草生 |
築城年 | 不明 |
築城者 | 草生氏(くさわし) |
形式 | 平山城 |
遺構 | 曲輪、土塁、空堀、説明板 |
規模 | 東西250m×南北90m |
城主 | 豪族、歴代の城主の記録はなく一部が垣間見られる。 |
永享年間(1429~1440)草生大和守 | |
天文年間(1532~1554)草生式部少輔 | |
永禄年間(1558~1569)草生越前守 | |
他に草生民部少輔の記述がある。 | |
標高 | 130m |
比高 | 70m(現況は道路が脇まで通っている) |
歴史 | 大和守から越前守まででも130年から140年の経過をたどる。 |
経緯 | 藤氏を祖先とする長野家与力(長野工藤家、長野藤房--豊藤(とよふじ)--) |
環境 | 経ヶ峰の東麓にある。尾根がくびれた所を城域の西端とし東に向かって郭が展開する。標高130mの所に本郭を備え3方を深い堀が巡る。 |
本郭に接する東側の一辺は二の郭が一段低く接続する。その境界には石積された痕跡が見うけられる。 | |
一族 | 長野工藤家の一族。永禄年間に信長により落城。 |
家臣 | 侍三百人馬上五十小人二百都合五百大将也 |
現地 | 北と南は谷が迫り、西は尾根が細くくびれている。東は伊勢湾を望むことができ安濃の穀倉地帯が眼下に迫る。城郭はその東に向けて展開される。草生城と同様の環境下である数キロ圏内に十数個の城が存在することも重点事項である。 |
考察 | 草生城も織田信長伊勢侵攻の際に安濃城らとともに落城した。 |
感想 | 本郭を三方(北・西・南)から囲む深い空堀が見事である。 |
その他 | 平成29年4月5日訪城 |
地図 | https://www.google.com/maps/d/edit?hl=ja&authuser=0&mid=1sE7i85-3qeA10HRT1ZDejbj3Ddw&ll=34.763419506629475%2C136.4133256604523&z=16 |
スライド
http://www.digibook.net/d/c555c557a0889fddb7b61744b7ec970f/?viewerMode=fullWindow
三重県松阪市飯南町向粥見 春谷寺 エドヒガン桜
2017年4月4日午後2時頃
樹齢約400年、12m高さ・3.9m幹回りとある。
駐車場、トイレ無料。入場料無料。小さな店1軒。
近くに飯南高校前のハナノキが花盛り。
櫛田川沿いに住まいするが初めて見せてもらった。
ハナノキ
2017年4月4日 三重県松阪市飯南町粥見
中日新聞に掲載のハナノキを撮りに行った。
飯南高校前、午後1時半ごろ。
赤い新芽なのかと言われても疑えない見映え。
そこでアップ。
確かに「花」。
花の大きさに比べて木が大きすぎて近寄らないと見逃してしまう。
ハナノキはこの後新葉のもえぎ色、新緑、深緑、黄葉、紅葉と七不思議ぐらい様子を代えていく。
新聞記事によるとハナノキは日本固有種で絶滅危惧種に指定されている。
樹齢約80年、25m高さ・幹回り4mとある。
櫛田川を挟んで南側に飯南町向粥見の春谷寺のエドヒガン桜が満開である。
無料駐車場や入園料を取らない方式は脱帽である。