鳥羽城/三重県指定史跡/三重県鳥羽市
九鬼嘉隆は三方を海に囲まれた前島を要害の地と定めた。大阪城築城用に三河国
幡豆から海上輸送した石材の一部を使って石垣を築き、約八ヵ年を要して文禄三年
(1594)八月に鳥羽城は完成した。嘉隆52歳。
慶長五年(1600)関が原合戦のおり、嘉隆(58歳)は石田三成の西軍、子の守隆は徳川家康の東軍となった。(嘉隆・守隆父子の関が原”人間ドラマ”;別途)
西軍に属した嘉隆は自刃。時に59歳。嘉隆の子守隆は東軍の徳川家康方につき、5万5千石の大名となった。
鳥羽城は寛永九年(1631)守隆が没するまで九鬼水軍の本拠地であったが、死後相続問題が起き、翌年二家に分断され鳥羽を去りその後は内藤氏、土井氏、松平氏、稲垣氏と城主が変わり明治4年の廃城まで続く。
鳥羽城は別名を錦城(二色城)ともいう。
その由来は鳥羽藩の財源であったボラ漁にある。ボラは光や音に敏感な魚で、月光や朝日に城の白壁が反射し漁獲に支障をきたした。そこで城の海側全面を黒壁にし、山側は白壁の二色となり錦となった。現在も錦裏、錦町の名前が残る。
絵図の上側が山側
絵図の下側が海側(大手門)
①天守閣 ②本丸 ③二の丸 ④三の丸 ⑤大手門 ⑥横町口門 ⑦藤口門
⑧相橘櫓門 ⑨蓮池・外堀 ⑩妙慶川 ⑪武家屋敷 ⑫城代家老屋敷
⑬家老(日向主殿)屋敷 ⑭家老(内藤彦十郎)屋敷
本丸の隅楼の石垣
同、右は家老(日向主殿)の屋敷跡の石垣と塀。
これら石垣の石の内一部は大阪城築城用の石。
九鬼嘉隆は三方を海に囲まれた前島を要害の地と定めた。大阪城築城用に三河国
幡豆から海上輸送した石材の一部を使って石垣を築き、約八ヵ年を要して文禄三年
(1594)八月に鳥羽城は完成した。嘉隆52歳。
慶長五年(1600)関が原合戦のおり、嘉隆(58歳)は石田三成の西軍、子の守隆は徳川家康の東軍となった。(嘉隆・守隆父子の関が原”人間ドラマ”;別途)
西軍に属した嘉隆は自刃。時に59歳。嘉隆の子守隆は東軍の徳川家康方につき、5万5千石の大名となった。
鳥羽城は寛永九年(1631)守隆が没するまで九鬼水軍の本拠地であったが、死後相続問題が起き、翌年二家に分断され鳥羽を去りその後は内藤氏、土井氏、松平氏、稲垣氏と城主が変わり明治4年の廃城まで続く。
鳥羽城は別名を錦城(二色城)ともいう。
その由来は鳥羽藩の財源であったボラ漁にある。ボラは光や音に敏感な魚で、月光や朝日に城の白壁が反射し漁獲に支障をきたした。そこで城の海側全面を黒壁にし、山側は白壁の二色となり錦となった。現在も錦裏、錦町の名前が残る。
絵図の上側が山側
絵図の下側が海側(大手門)
①天守閣 ②本丸 ③二の丸 ④三の丸 ⑤大手門 ⑥横町口門 ⑦藤口門
⑧相橘櫓門 ⑨蓮池・外堀 ⑩妙慶川 ⑪武家屋敷 ⑫城代家老屋敷
⑬家老(日向主殿)屋敷 ⑭家老(内藤彦十郎)屋敷
本丸の隅楼の石垣
同、右は家老(日向主殿)の屋敷跡の石垣と塀。
これら石垣の石の内一部は大阪城築城用の石。