城名 |
東ノ城 |
読み |
ひがしのじょう |
別名 |
鍬形城(再発見奥伊勢の城・伊藤徳也氏著) |
住所 |
多気町井内林/鍬形 |
築城年 |
1347年(貞和三/正平二)11月26日 甲子(きのえね) |
(新暦:12月28日) |
築城者 |
度会家行 |
形式 |
山城 |
遺構 |
曲輪、堀切 |
規模 |
東西44m×南北50m×2郭 |
城主 |
不明(渡会家行の一家臣と考えられる。東ノ城の東にある尾根の先端に「佐伯城」があり、麓に北畠家臣御旗本組頭佐伯権之進の名があることから推定される。 |
一族 |
上記より佐伯権之進自身又はその一族との推察も想起させる。 |
標高 北郭217-南郭222m 比高 同186-同191m(伊勢本街道より) |
歴史 |
近長谷寺にある「近津長谷城址」の看板に「貞和三年(正平二・一三四七)楠木正行に呼応し外宮禰宜の渡会家行らが兵糧米・具足をととのえ構えたと『外宮禰宜目安案』に記されている」とある。 |
多気町史では「貞和三年秋〈中略〉11月26日」と記す。新暦で12月28日となる。下記の経緯より楠木正行討死の約一か月前のことになる。 |
経緯 |
楠木正行は正成嫡男で、正時・正儀の兄。正成が大楠公(だいなんこう)と呼ばれるのに対して、正行は小楠公(しょうなんこう)と呼ばれる。生年未詳であるが没年は 正平3年/貞和4年1月5日(1348年2月4日)。四條畷の戦いにおいて、幕府の総力に近い兵を動員した高師直と戦い、一時は師直を本陣である野崎から後退させるなど優位に立つも、追った先の北四条で力尽き、弟の正時を含めた26人の将校と共に戦死した(正行22才)。 |
書籍 |
三重の中世城館 多気町史 ウィキペディア |
環境 |
東ノ城は近津長谷城砦群の一つで本城の北西1kmにあり。高見峠を越えて吉野につながる和歌山街道と小片野で分岐した伊勢本街道及び櫛田川を抑えている。 |
現地 |
多気町立津田小学校南に走る県道421号線から「伊勢三郎物見の松といぼ地蔵」を経由し山中へ入る。池を超えると郷の集合墓の前に行きつく。付近の広場に駐車可能である。 |
集合墓の裏手尾根に取り付く。10分ほどで最初の平坦地だがここは小規模な円墳となっている。この山は古くから敬われていた場所と考えられる。 |
円墳から30分ほどで北郭手前の平坦地(恐らく城域の一部と考えられる)に着く。 |
遺構としては西側の斜面に竪堀か道かのへこみが見られる以外注目すべき場所はないようである。 |
更に登ると北郭に着き、北郭から尾根を南下すること数分・100mで南郭に着く。 |
考察 |
朝廷が南北に分裂して十数年後でまだ不安定、幕府も混乱する中、南朝方に組した渡会氏は北畠氏の臣下として、関西で幕府軍と戦っている楠木軍を援護するため、また幕府軍から南勢地及び伊勢神宮を守るために長谷の地にこれほどの城砦群(注)を造った。 |
兵糧や物資を南勢地から関西へ運ぶための流路を確保するため、又は幕府軍の攻撃に備えて伊勢本街道や櫛田川を抑えるためにこの長谷の地は渡会氏にとって最後の大きな拠点であったと考えられる。 |
感想 |
14世紀の山城。田丸城、神山城、一之瀬城などの次にできた城。1347年築城とすると約六百数十年前のこととなる。神山城や一之瀬城の遺構の残り方を見ると、東ノ城の遺構の状況が同じように良好であることが疑われるわけではないが、不思議で感慨深い。 |
同じ尾根に南北に分かれてあるのは、本城あるいは他の拠点との通信のやり取りを主眼としているからと考えられる。北郭、南郭それぞれの視界や視野があったと考えられる。恐らく間にある100m程の尾根は兵が走って連絡し合っていたと考えられその様子が想像される。 |
注 |
近津長谷城砦群は本城・近津長谷城に始まり、長谷城・東ノ城・佐伯城・西ノ城・茶臼山城・牧城などの支城が配置されている。このことからも渡会氏がこの拠点を重要視していたことが分かる。兵の総数は700人といわれる。 |
北家城城
2021年1月6日に”遺構探索倶楽部 レコ”が新発見した山城。10月に松阪山城会の会長に伝達し、12月11日に伊藤徳也氏と新城について事前に見ていただいていたレポートに基づいて面談した。
その評価は「北家城城は間違いなく城」とされた。さらにこの北家城城より南西方600mの尾根上にある19×11mの単郭、両側に堀切を持つ遺構も城であると評価された。この山城を我々は「北家城西城」と命名していた。その理由として両城の間は大きな谷に遮られていて距離もあることにより別の城と判断はするが、一つの山塊に共存する以上全くの無関係とも考えにくいことから「北家城」を冠として関係性を伺わせた。あるいは北家城城が主で北家城西城が従という意味合いがあるのかもしれにという想像からでもある。
昨今、グーグルマップやツイッターで「北家城城」が知られるようになってきたが経緯などについて若干の誤解や間違いがあるために新城発見の経緯として説明をした。
城の詳細については別途アップする予定。
松阪市飯南町粥見に史跡柳瀬観音がある。
入口の階段右側に案内の看板がある。
あらためて活字に起こしてみる。
「史跡 柳瀬観音
中世末期の戦国時代、篠山城から落ちのびて、柳瀬の地に住んでいた野呂兵庫頭が
持仏を埋めて大和へ去り、元和三年村人が発見して深田金助らがこの観音寺を創建し
たと伝えています。
現在は無住のため荒れ果てていますが、大正時代まで芝居小屋が假設され、しばし
ば興行されていました。附近には武将館ゆかりの地名がいくつか残されています。
飯南町文化財調査委員会」
である。
中世城館ファンとしては見過ごせない情報が幾つかある。
1、中世末期の戦国時代に、篠山城から落ちのびて、柳瀬の地に、野呂兵庫頭が、
住んでいた。
2、附近には、武将館ゆかりの、地名が、いくつか残されている。
以上9つのキーワードがみられる。
飯南町史には以下の記述がみられる。
1、柳瀬の北山麓には中世の山城らしき跡も残り、武将在郷のことも決して虚構と
は言えないのである。(p, 1452 )
2、中世期になると、北畠氏の支配下となり、末期となって柳瀬には北畠の臣、
梁瀬兵庫頭が城を構えて城主となったという。その場所は観音寺より約500mほど
東にある山裾の地と伝えられ、門前と呼ばれている。(p,246)
3、また観音寺縁起に「当国粥見の祭主野呂兵庫頭平忠高(後、梁瀬兵庫頭)とあ
り、粥見の支配者であったことをうかがわせている。(p,246)。
4、出鹿の中山は、北畠の家臣中山三衛門義高なる者が、信長の北畠攻略後、一族
と共に立てこもった場所であると伝えている。(p,247)
以上、またいくつかのキーワードがみられる。
場所の確定
カシミール3D(左図)、赤色立体地図(中央図)、Google空中写真(右図)から
ある地点を見出した。
Google空中写真が茶畑を映し出している。この辺り一帯は南に向けての緩斜面とな
り、お茶の生育に好都合な地勢と思われる。
その中の一カ所だけは他と異なる様相を示している。現地の風景からは判別しがた
いが、カシミール3Dや赤色立体地図からは他との違いが明瞭に浮かび上がる。
念のためこの地点をカシミール3Dの断面図で確認してみる。
黒い線の部分の断面図を西から順に下図に示す。
西側断面図☝
中央断面図☝
東側断面図☝
上図から、中央の断面図にだけ水平な部分を見い出せることが分かる。この水平な部
分と同じ様相を示す場所はこの付近一帯には見受けられない。
手前から☝
この部分☝
他は傾斜地☝
また、この場所は観音寺から東へ400mのところにあり、飯南町史が指摘する500m
とは100mの差があるが、500m周辺にはそれらしき様相が無く誤差と考えたい。
更に隣接する南の区画も、他とは異なって傾斜がほぼ無いといってよいと判断で
きること、道が付帯することから同じ城跡の一部かもしれない。ここを住民のご老人
達は「門坂」と呼んでいる。飯南町史は「門前」と記しているが、おそらくこの辺と
いうくくりでは間違いなさそうである。当該地の大きさは東西50m×南北100m
ほどである。他に遺構らしきものは見当たらない。
案内看板では「野呂兵庫頭」であり、飯南町史では「梁瀬兵庫頭」とされている。
土地の名前を優先して「梁瀬兵庫頭城跡」とした。
粥見には他に、白粥城と言う伝承もあり、また粥見神社の北側には別の山城遺構ら
しき場所(出鹿砦又は粥見城)もあり、まだまだ全体像を整理したとは言えない状況であ
るため、今後の整合性を予見して、武将名を冠した城名とした。
柳瀬兵庫守館跡 縄張図☝
尚、郷土史家小林孚(こばやし・かえし)氏が1982(昭57)年にこの地を訪れ結論として
「見聞をして後考の資としたい」と締めくくり『北畠国司縁城』に記している。
単郭構造であるが虎口に小さなエプロンが付属している。
背後に堀切はない。
曲輪の奥(虎口と反対側)に低い土塁の痕跡がある。
近世において、社を設けて祭事に使用されていたらしいが現在は放棄されている。
仮称 丹生番所城
遺構 曲輪、二重土塁(スロープ付き)、平入虎口、番所跡
標高 178m
比高 100m
住所 多気町丹生/鍬形
特記事項 番所と城がセットになっているのは例が少ないかもしれない。(五輪山城はその部類かも知れない)
☝ 川上城想像図
☝ 曲輪Ⅰ
☝ 曲輪ⅡからⅢ
☝ 曲輪Ⅲ
☝ 曲輪Ⅲから堀切Aと曲輪Ⅳ
☝ 堀切A
☝ 曲輪Ⅴ
☝ 曲輪Ⅴから曲輪Ⅵ(手前に堀切B)
☝ 堀切Bと曲輪Ⅴ
☝ 曲輪Ⅵ
城名 |
川上城 |
読み |
かわかみじょう |
住所 |
津市美杉町川上 |
築城年 |
不明 |
築城者 |
不明 |
形式 |
山城 |
遺構 |
曲輪、堀切 |
規模 |
尾根230mの長さに亘って、大小9つの曲輪と2つの堀切によって縄張された中規模の山城(注1)。 |
城主 |
日置氏弟(宮内少輔)か。 |
標高 572m 比高 230m |
歴史 |
応永22年(1415)北畠満雅一回目の挙兵の時、5月16日に阿坂城が攻め取られ、北畠軍は中村川をさかのぼり多気にこもって持ちこたえた。 |
一方同年6月17日、雲出川を遡った幕府軍に川上城は落された。(伊藤裕偉氏、「北畠氏領域における阿坂城とその周辺」『三重ヒストリー6号』) |
経緯 |
平成7年夏、皇学館大学考古学研究会の調査によって遺構が確認された。同10年5月に同会によって再調査が行われ、略測図が作成された。 |
書籍 |
三重の中世城館第19号 |
環境 |
霧山城、剣ヶ峰城が多気を直接的に防御するための城とするに対して、川上城は多気から西あるいは南への間道を抑えるための城という位置付けではないだろうか。 |
川上城が陥落したことによって幕府軍は、奥津から多気と、川上から丹生俣・多気という2つの攻め口が確保できたことになる。 |
現地 |
数メートルから15m位の尾根の幅をもつ山頂と付近に9つの曲輪を配している。 |
最高部の曲輪Ⅵの削平感があまりにないことがこの城の謎である。面積もあり最も削平感のある曲輪Ⅰが唯一というぐらい全体的に造りの完成度は低い。 また、曲輪の内側に2つの堀切が設えられている点も珍しい造りである。 |
考察 |
剣ヶ峰城が多気を守備する高機能な城とすると、川上城は直下の間道及び南の山の若宮峠、川俣峠などを守備する見張専門の機能を要求された城で、城自体の防御性よりもその位置自体(機動力)に意味があったのではないだろうか。 |
感想 |
伊勢の中世城館の記述に「全ての曲輪が見下ろせる山頂部に城郭関連施設が存在しなかったと考えるのも不自然であり、どこまでを城郭遺構として判断するかは今後の課題である」とあるように、曲輪の削平感の有る無しや出来不出来で、城であるか無いかの判断にまで及ぶのは、山城を考えるとき間違いを起こす可能性が有るのではないかと考えている。 |
全く、削平の無い曲輪が堀切で囲まれている山城が存在する。 |
注1 |
伊勢の中世城館では山頂部の曲輪Ⅵから西の施設を城郭と認めていないため、”小規模な中世城館”としているが、ここではそれらを全て曲輪と判断したので中規模となった。2つの腰曲輪の内部にある曲輪Ⅵである。 |
地図 |
☝ 主郭
☝ 曲輪2
☝ 堀切 1
☝ 掘切 2
☝ 堀切 3
☝ 主郭土塁
☝ 窪みと溝
☝ 主郭土塁
☝ 主郭の中でも護りの堅固な中心部分
☝ 主郭から70Mの所にある削平地
☝ 主郭から95Mの所にある土塁
城名 |
剣ヶ峰城 |
読み |
けんがみねじょう |
住所 |
津市美杉町川上/奥津/上多気 |
築城年 |
不明 |
築城者 |
不明 |
形式 |
山城 |
遺構 |
曲輪、土塁、堀切 |
標高 723m 比高 460m |
経緯 |
近世に描かれた『多気城下絵図』では、「剣ヶ峯城」「天峯矢蔵」「大峯城」「天峯城」などと呼ばれ広く知られていた。 |
伊勢国司紀略に「大和口の見付け城の跡、剣が峰の上にあり。御所の南方なり。」という記述がある。 |
近代になって、その存在が忘れ去られてしまい、ながらく不明城館として扱われてきた。 |
平成6、7年度に皇学館大学考古学研究会が再発見し測量を行った。 |
平成11年5月には伊賀中世城館調査会によって測量図が発表された。 |
同年秋に伊勢中世城館研究会によってさらなる調査が行われた。 |
書籍 |
伊勢の中世城館第13号 |
環境 |
奥津の消防署との比高は460mとなる。 |
霧山城の南方に位置しその距離は2.8㎞で見通しは効く。また、川上城はさらに南方3.2㎞のところにあり同じく視界は効く。 |
霧山城と川上城の見通しは山に遮られ効かない。 |
現地 |
細長い尾根にある主郭の南西に虎口がある。土塁とエプロン状の平地から柵を設ければ馬出となる形状を整えている。 |
主郭を4方向の尾根が取巻いてその内3方向には堀切が備わる。どれもいまだに残り方が良好である。 |
その一つ北西側尾根からの守りをするのであろうか、主郭に土塁が設けられている。岩盤の露頭がそのまま利用されている。 |
土塁に接する位置で曲輪を横断するように溝があり、溝の先には丸い形の窪みがかすかに見られる。何を目的としたのか興味深い。 |
主郭の北側には見張台と思われる高まりがあり、その外側には剣ヶ峰城最大の堀切がある。北側がこの城の背後なのであろうか。 |
『伊勢の中世城館第13号』では、「南東の尾根には遺構がないことを確認」としているが、主郭から70mの所に削平地が95mの所に低い土塁を確認した。この尾根は唯一堀切が設けられていない尾根でもある。また、杉峠(番所)へのルートであり、何らかの関係が想像される。 |
考察 |
城の西、北、東には重要な街道がある。また、南側には杉峠があり、中世には番所があったとされており、東西南北を見張り、かつ川上城への連絡ルートとしても機能していたのではないだろうか。 |
感想 |
この城は重要な位置にあることがよくわかるが如何せん、比高がありすぎて城に勤めた武士たちの苦労が伺われる。 |
奥深い山城につき単独での訪城は避けた方がよい。できれば山城経験者の引率による訪城が望まれる。 |
余談 |
津市の遺跡地図が示す剣ヶ峰城は東にずれているので注意がいる。 |
地図 |
この日は訪城日和であった。
辛い山行を紅葉が癒してくれて、メンバー全員堪能した。
これまで出丸城の場所を確定した報告や資料は無かったが、今回確率の高い遺構を発見したことでこれまでのブログ記事を全面改訂し旧記事は削除した。 過去2回(2017 2019年)は単独訪城、今回(2020年)は山城会会員の同伴を得た訪城である。山桜がこれ見よがしに枝を張り尾根のところどころに花びらを散らしていた。
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城名 |
出丸城 |
読み |
いでまるじょう【*1】 |
住所 |
津市一志町波瀬出丸/松阪市嬉野宮野町 |
形式 |
山城/のろし台 |
遺構 |
曲輪、土塁 |
城主 |
出丸四郎国道【*2】 |
一族 |
波瀬氏の分家。波瀬城の支城。【*2】 |
標高 206m(三角点) 比高 125m |
歴史 |
信長により落城。 |
書籍 |
【*2】日本城郭大系・【その他の城郭一覧】 伊勢の中世城館・第22号【上出城の調査】 忍者学講座・第7章【忍者の火器を作ってみる】 |
環境 |
多気御所と一志平野部を結ぶ多気街道と波瀬の平野部を眼下に見る尾根の先端から離れ、それらの見通しがなくなる尾根の奥へ進んだ206mのピークに達すると遺構はある。 |
現在、山頂は雑木に覆われ視界が効かない状態であるためカシミール3Dソフトによって見通しを確認した結果、波瀬城への見通しは効くことが分かる。距離は1Km余りである。 |
現地 |
山の東入口から700m進むと、標高180mに小ピークがある。その北東直下には削平地が3段ほど連続して見られる。石垣、建物礎石、瓦の残骸が散在するがこれは「秋葉神社」跡という。 |
また小ピークより100m南東には土塁と切岸で二方向を固めた削平地が独立してある。堀切は見られないがこの遺構は出丸城を構成するパーツのひとつと考えられ、出曲輪とする。 |
三角点のある206mピークの削平感は弱いが、西北西に一段下がった曲輪は2方向を今は低いが土塁としていることが明らかで、ここが出丸城の本体と考え、主郭とする。 |
考察 |
西北西の方向へ平行に土塁(芯距離9m)が設けられていることがこの遺構の唯一、最大の特徴である。当初、その防御性の無い縄張りにこの遺構を城跡と判定できなかったが、ある特殊な機能を持たせた施設と仮定するといきなり確信が持てることとなった。 |
特殊な機能とは、非常時、昼夜を問わず本城・波瀬城へ信号を送る情報中継基地ということである。昼間や条件の良いときはのろしを揚げることはもとより、夜間や条件の悪いときは火を焚き上げて本城に光による信号を届け重要な情報を送ったのではないか。 |
西北西に平行に土塁が並び、後方は切岸で段差を設け3方をふさいだうえで波瀬城の方向は開いているのはそのためではないだろうかと考えられる。わざと波瀬城に向けてこの遺構の縄張りは施されていると思えるのである。 |
中世における山城間の情報伝達の手段として「のろし」は既に言われてきている。煙の種類や揚げ方などいろいろあることは想像されているが、それは昼間に行われてきたという暗黙の了解で成り立ってきていると思われる。実際、敵方は夜間の動きもあったはずだ。”情報は夜も動く” |
波瀬氏の分家で城主・出丸四郎国道は昼夜を問わず、阿坂城など東からの情報を見逃すことなく捉え、本城波瀬城に素早く、間違いなく中継する役目を担っていた。火を扱える特殊で重要な役職、あるいは忍者的な働きをもった武将であったとも考えられる。 |
三重大学国際忍者研究センター著、山田雄司編「忍者学講座」の第7章・荒木利芳名誉教授はこう記されている。 |
忍術の3大秘伝書『万川集海』の火器編には、火器・火術は次のような理由から、忍術要道の根源であると述べられている。「一、中略、二、昼夜にかかわらず味方に合図できる。三、風雨に消えない松明で、味方の難を救える」。 |
やはり情報の伝達は24時間、悪環境下でも行えなければならなかったのである。 |
更に教授は、「また、本書には200種類以上の火器が記されているが、その内の半分近くが敵を撃退するための「破壊用火器」で、残り半分が松明やかがり火などの「照明用火器」、およびのろしなどの「合図用火器」である。」と引用されている。 |
昼間しか使えない「のろし」にとどまらず、昼夜にかかわらない、あるいは悪環境下でも使用に耐えうる高機能松明が既に発達していたと考えられる。のろしやのろし台に対する私たちの捉え方を、これからは変える必要があるのかも知れない。 |
その物的証拠としてこの出丸城の波瀬城に向いて開く二本の平行した土塁遺構を診ることができるのではないだろうか。 |
波瀬城の位置から直接阿坂城など東側の見通しは効かないが、この206mのピークからだと阿坂城など東側の山頂の見通しが効く。 |
阿坂城や東の山城と波瀬城の中継基地としてこの城は存在したのではないだろうか。 |
山城の築かれる場所は川や道による人や物の流れのある所が通常であるが、この城は川や道の傍にあるものではなく、わざわざ山の奥まったところに造られている。 |
あるいは山の奥まった所の険峻な要害の地でもないところにある理由は、この城が情報の中継だけが目的であるからであると思われる。 |
206mピークにある遺構の方向と形、そして要害性のない位置や、防御性の弱い縄張りを考えたとき、この城は直接敵兵と戦うための施設ではなく、阿坂城など東側からの情報をいつ何時でも本城・波瀬城に伝える役目を持った情報中継基地であったと考えるのである。 |
感想 |
1569年(永禄12)北畠氏と織田信長が和睦し、波瀬氏も落着きを取り戻したのかも知れない。しかし、1576年(天正4)波瀬具祐が田丸城で他の北畠諸氏と共に殺害されると、弟・具通、子・雅通、孫・康親が次々と殺害され、1577年波瀬城と共に出丸城は落城した。 |
阿坂城からこの出丸城を経由して波瀬城に緊急の一報が届いたことだと想像すると、この城の存在がその姿以上に際立ってくる想いである。出丸四郎国道も激闘の末、主君と共に散り咲いたのだろうか。 |
*1 広報津【平成26年1月16日/第194号 歴史散歩(92)】による読み。 |
地図 |
👆 定本三重県の城
👆 定本三重県の城(巻末に「字小広」で記載あり)
👆 松阪市史別巻(古地図で「字小廣」を検出)
👆 昭和22年航空写真(該当地の鋭角で変則的な様子)
👆 4図で位置の検出
👆 西野町現地付近
👆 字小廣の尾根を攻めるが何もない
👆 山すそに削平地はある
👆 これだけでは判断しがたい
城名 |
奥野城 |
読み |
おくのじょう |
別名 |
奥の屋敷 |
住所 |
松阪市西野町字小廣(広) |
形式 |
居館 |
遺構 |
不明 |
規模 |
不明 |
城主 |
不明 |
標高 132m 比高 30m(無量寺前より) |
経緯 |
定本三重県の城にてNo,104として奥野城が記されている。巻末の記事には「丘陵地を削平して三方を防塁とした単郭構造の城で、郭内より出土した備前焼の大甕が現存する」とある。 |
書籍 |
定本三重県の城 |
環境 |
西野町集落より南西の方向で、棚田の最高点から山林にかけての範囲を、旧称でいう字小廣(広)である。 |
現地 |
棚田自体も圃場整備が行われている。該当地も大きく改変された様子で遺構を見出すことは困難である。 |
周辺の尾根を歩いてみたが、遺構らしきものは見出せなかった。複数の箇所では人為的な造作らしきところもあるが決定的ではない。 |
考察 |
出土したという大甕を追跡して情報を得るのが早道の気がする。 |
感想 |
地元城館研究者の一部で”西野城”を取り上げているが、その史料や遺構が不明確なため、またこの奥野城の史料や遺構も不明確なため、一般的には混同しやすい状況となっているので注意が必要である。 |
西野町と奥野城の西と奥が混同されている可能性が残っているが、奥野城の奥は別名奥屋敷と小字名の別称があるように、れっきとした奥の方の屋敷という意味があるようだ。 |
地図 |
城名 |
五箇篠山城 |
読み |
ごかささやまじょう |
旧名 |
五ケ城 |
住所 |
多気町朝柄/古江 城山 |
築城年 |
不明 |
形式 |
山城 |
遺構 |
曲輪、堀切、土塁 |
規模 |
270×115m |
城主 |
野呂氏(伝承) - 五箇景雅(伝承) - 野呂筑前守 - 野呂氏代々(伝承) - 安保大蔵大夫 |
一族 |
北畠氏家臣 |
標高 140m 比高 75m |
歴史 |
史料に裏付けされた信頼性の高い情報を諸氏が文献としているものを時系列に記述する。 |
「文献上の初見は、南北朝時代にさかのぼる。仁木義長が伊勢守護に任じられると1342年に田丸城や阪内城を相次いで陥落させ伊勢国での南朝方を一気に劣勢に追い込み、翌1343(康永2=興国4)年には、五ヶ城にも軍を進め攻撃している。その後の史料がなく合戦の結果は不明だが、五ヶ城もおそらく落城したものと考えられる。」(県史編さんグループ 小林秀氏)(落城1⃣) |
「1465年12月6日付けで、北畠氏による山田への攻撃の中止を求める訴状が宇治六郷神役人書状として、奉行所へ提出されている宛先に野呂筑前守(注1)の名がある。」(勢和村史) |
「1582年(天正10)、本能寺の変で織田信長が死ぬと、具親は安芸から再び伊勢にもどってくる。そして安保大蔵少輔・岸江大炊助・稲生雅楽助以下3000人で挙兵して五ヶ城に立て籠もる。 |
西端の曲輪には土塁が巡らされ、虎口(こぐち)には、小さいながらも桝形も設けられ、また、一部には石塁も使われていたがこれらの防備は、北畠具親の籠城に際して設けられたことは明らかである。 |
しかし翌年の1月1日に織田信雄は津川玄蕃頭・田丸中務少輔・日置大膳亮・本田左京亮等をつかわせて攻撃してきた。具親軍・安保直親は本田軍の中西帯刀などを討ち取る激戦を繰り広げたが、具親軍の敗色が濃厚となり、2日の深夜に松明を投げつけたり鉄砲をさんざん撃つという最後の抵抗を試み、翌日の早朝に城内に松明・鉄砲の火縄をつけたまま具親は密かに伊賀へ逃亡した。午前中に信雄軍が空になった城を落した。」(県史編さんグループ 小林秀氏)(落城 3⃣) |
その他伝承の域を出ない、ことがらや野呂氏の名前が散見されるものを時系列で記述する。 |
「野呂氏は上野国から当地に移住してきて、ここに城を構えたのかも知れない。」(同時代の城に采女城や長野城がある。)(13世紀中頃(1260年±50年)) |
「室町期 北畠氏被官、朝柄の土豪・五箇景雅が当地域を本拠地としたと考えられる。五箇氏は文明年間(1469~87)に北畠氏に背いたことで滅ぼされた。」(14世紀後半から1469~87年)(落城 2⃣) |
「五箇氏の後、野呂氏が入部したものとみられる。」 |
「野呂三郎は多気郡の豪族。斎宮城、智積寺城を豊田五郎右衛門尉と共に奪うが本田美作守勢に敗北、討死した。」(1555年) |
「野呂左近将監;織田家との和議に応じるよう北畠具教に説得したが誅殺される。」(1562年) |
「野呂越前守実高、伊予守父子は北畠海賊衆。北畠家から離反した志摩海賊衆の討伐勢を指揮する大将。討死。」(1568年) |
「永禄12年(1569)信長の伊勢侵攻。五箇篠山城主野呂越前守源実は二見付近に出撃し、一族皆討死。」(1569年) |
伝承は篠山から粥見にも飛び火している。 |
「篠山城から落ちのびて柳瀬に住まいした野呂兵庫守が持仏を埋めて大和に去り、云々。(飯南町文化財調査委員会)」 |
「柳瀬には北畠の臣、梁瀬兵庫守が城を構えて城主となったという。(飯南町史)」(野呂兵庫守のことか) |
現在は粥見柳瀬(やなぜ)の茶畑の中央付近に門前・門坂という地名があり、一段高くなったところに削平地が残る。 |
環境 |
城跡は標高140メートル、比高差にして約70メートル程の完全な独立丘陵の頂上にあり周囲の自然地形を巧みに利用して築かれている。麓には朝柄川、櫛田川、沼地があり要塞の要件を整えている。 |
今に残る遺構は南北朝時代のものでなく戦国時代末期(1580年代か)に改修され北畠氏によって維持されたと考えられる。遺構の保存状態も良好で、県内屈指の山城跡である。なお、「五箇篠山城」の名称は後世の命名であり、当時は「五ヶ城」と呼ばれていた。 |
縄張の中心は山上の尾根を東西に深い堀切で分断して築かれた台状の連郭群と、その周囲に配した帯郭からできている。曲輪は基本的には土塁はないが西端の曲輪のみ「コ」の字に取りまく低い土塁がある。虎口もこの曲輪に設けられており、恐らくここが主郭であったと考えられる。虎口の付近から川原石が出土しており一部で石塁が築かれていたようだ。 |
防備施設の遺構分布は丘陵の北斜面は地形が単純で急峻なため少なく、南斜面は谷が多く独立した尾根を造っているので要塞の条件を備えており、遺構が高所に集中している。 |
現地 |
神山城などとも同じだが意外と狭い山城である。 |
また、近くには信雄軍が五ヶ城を攻める際に築いたという「ひよどり城跡」がある。 |
考察 |
五箇氏や野呂氏を系統だって述べたものが未だ無いようである。一つ見えてきたと思われることは”野呂氏が長い間(3世紀位)ここ朝柄を本拠として納めていただろう”ということ。 |
そして、北畠氏の臣下として幾つかの戦いに参加し、悲惨な局面に終始し、戦勝者の記録も残せなかったこと。 |
感想 |
戦国時代に勇猛な武者の家を何代も継いできた土豪の悲哀な歴史がここにあった。 |
注1 |
野呂氏では”越前守”が頻出するが別人と考える。 |
地図 |
小さいが虎口は枡形である。またこの付近から川原石が出土しているので一部石塁が築かれていた。
②の郭(小さい)
③-④の間
④-⑤の間
南斜面、入らないほうが無難
北にひよどり城のある山が見える
北東に西ノ城のある山が見える
👆 柳瀬観音の説明看板”野呂兵庫守”の名前が見られる。
👆 飯南町史に記載される場所を推定すると”茶畑の中に削平地らしき場所がある”
初回投稿 2009年2月27日
改定1 2020年9月22日 (文章の改定;野呂氏の情報整理 写真2枚追加)