「松阪の城50選」は書店では売っていない。販売数量が少ないせいか、入手方法は葉書かEメールとのこと。税込1,000円+送料で後払い。
葉書 ➡ 〒515-0063 松阪市大黒田町1850-5 高瀬孝二
Eメール ➡ mphoto_7@mctv.ne.jp 門山信男
「 セルフコラボレーション 」とメモ書きしてください。
内容はよく、保存版・携帯版として文句無いと思う。
新聞各紙で取り上げられている。
朝日新聞 https://www.asahi.com/articles/photo/AS20191213002526.html
夕刊三重 http://www.yukanmie.com/news/8205/
伊勢新聞 https://news.line.me/issue/oa-iseshimbun/a81da78140fe
そろそろネット上で見かけるようになっている。
攻城団 https://kojodan.jp/books/1880/
戦国史跡巡り http://sengokushiseki.com/?p=2809
城名 |
美濃金山城 |
読み |
みのかねやまじょう |
別名 |
兼山城 |
住所 |
可児市兼山 |
築城年 |
1537年 |
廃城年 |
1601年 |
築城者 |
斎藤正義 |
廃城者 |
石川氏 |
形式 |
山城 |
遺構 |
曲輪、石垣、 |
城主 |
森長可など |
標高 280m 比高 185m |
歴史 |
森可成(よしなり)-長可(次男・ながよし)-忠政(六男) |
経緯 |
1601年石川氏によって解体、犬山城の改修に使用される。天守移築説は否定されている。 |
参考 |
Wikipedia 他 |
現地 |
石川氏が犬山に材料を持っていってから、江戸時代は尾張藩の山となり立ち入り禁止、明治時代は皇室の管理、昭和20年からは国有林となる。 |
昭和28年住民に払い下げられた。長年にわたり利用できなかったことが当時の様子を残すことになった。 |
破城の様子は全国のどこよりも生々しいと思った。 |
考察 |
岩村城の六段壁に匹敵する石垣の様子が主郭の西側などに伺える。一時森長可や忠政が岩村城を接収していたことが関係しているのかも知れない。 |
感想 |
木曽川を20kmほど下り犬山城に利用された金山城の古材は今生かされている。 |
金山城は破城され、石垣だけが残り無残な景色となったがこれはエコなことなのかもしれない。 |
笠木館 |
多気町笠木 平地居館 |
笠木御所 |
矢田城 |
多気町矢田 独立山頂 |
笠木御所の詰城? |
野中浅間山砦 |
多気町野中 独立山頂 |
伊勢神宮が絡む |
西山城 |
多気町西山 独立山頂 |
北畠家家臣 |
片倉氏館 |
多気町四神田 平地居館 |
伊達家家臣 |
黒田山城 |
多気町兄国/荒蒔 尾根先端 |
兄国氏の城か |
高井戸城 |
多気町平谷 尾根先端 |
別名;佐奈城 |
五桂城 |
多気町五桂、平谷の境界山上 独立山頂 |
砦が付属するか |
近津長谷城 |
多気町長谷 尾根山頂 |
貞和3年に楠木正行と挙兵 |
長谷城 |
多気町長谷 尾根山頂 |
近津長谷城の支城 |
佐伯中浅間山城 |
多気町佐伯中 尾根先端 |
佐伯中浅間山で大日如来が祀られている |
東之城 | 多気町佐伯中/鍬形 | 北郭と南郭の連郭が特徴 |
西之城 |
多気町津留、鍬形の境界 尾根山頂 |
東西に連なる尾根上にある |
牧城 |
多気町牧 尾根先端 |
北畠家家臣、具教と同時期に死去 |
丹生城 |
多気町丹生 尾根先端 |
新発見!! |
ひよどり城 |
多気町上出江 尾根山頂 |
波多瀬氏の出城か |
五箇篠山城 |
多気町朝柄 独立山頂 |
北畠家家臣 |
波多瀬城 |
多気町波多瀬 独立山頂 |
大永年間築城、波多瀬氏を称す |
その他の遺構
大権現 行者 |
多気町上出江 独立山頂 |
山頂を城郭とする根拠は見出せない。 |
多気町の城所在地
度会町の城 特集
一之瀬城 |
度会町脇出城山 独立山頂 |
愛洲氏が築城。一之瀬御所。 |
青木山城・屋敷跡 |
度会町脇出 独立山頂 |
丘頂に4条の堀切、削平地がある。 |
矢村城 |
度会町上久具 丘陵平城 |
丘陵にあった。(旧山川城) |
麻加江城 |
度会町麻加江 丘陵平城 |
丘陵にあった。 |
長原城 |
度会町長原 尾根先端 |
大崎氏の詰城。立岡城と似るところあり。 |
南鮠川城 |
度会町富津 河岸段丘縁 |
丘頂にあった。 |
立岡城 |
度会町立岡 尾根先端 |
丘頂にあった。 |
牧戸城 |
度会町牧戸 河岸段丘縁 |
北畠家家臣。 |
山崎館 |
度会町立花 河岸段丘縁 |
台地にあった。 |
殿山城 |
度会町長原 尾根先端 |
丘頂にあった。 |
蓮華寺城 |
度会町棚橋 独立山頂 |
蓮華寺の城として山頂に2か所ある。 |
城山城 |
度会町棚橋 河岸段丘縁 |
台地にあった。(別名;棚橋城) |
制覇 12
度会町の城 所在地
12月7日の新聞記事で、”「松阪の城50選」が刊行”と発表されていた。
メールか葉書で注文する方法とのこと。
一先ず友人を頼って、チラシとポスターの紹介写真だけを手にした。
まだ、現物は手に入っていない。
市中では販売しないとのことである。
まさに地域限定、ローカル色の極めだ。
こういう人たちが地域を支えているのかも知れない。
50城を厳選されたようだが、実際は54城が掲載されているとのこと。
選別に悩まれた様子が伺える。
溢れた4城に興味がそそられる。
早速、注文を済ませた。
税込み1,000円とのこと。コスパは見てから判断しよう。
手に入ったら簡単に紹介と評価をしよう。
12月12日、松阪の城50選 ゲット!
日本には城の数が3万とも5万ともあるといわれる。都道府県の数が47で各1,000城あるとすると、47,000城となるがこれはあまりに無鉄砲な考えだ。3万と5万と大きくかけ離れている理由に3万は発見され名前がある城の数で、5万は未発見の城の数を加えたものかも知れない。
ご当地三重県では1,000城余りというのが相場である。上記の各1,000城にちょうど等しい。大別もされている。伊賀上野地区が半分の500で、残りが三重県の他の合計という。伊賀上野地区に固まって多くあるのは中世までの国人という制度が理由という。このような地域の特殊性はまた全国にあると考えられる。
自身も城を新しく見つけ、三重県の城、1,000城に加わることになるのかも知れない。しかし、その数は1%にも満たない程である。
新城発見・発表のリスク
1、真偽の程度
2、世間へ迷惑をかける
3、確定の手法
本当に遺構と言っていいのか、そんな状態で世間に公表してよいのか、論理武装は確かなのかと悩んでしまうところである。
それでも、信念のもと発表している。形がなくなる前に記録に残したいという一心である。真偽は後世にお任せしようと思う。リスクより可能性の方に掛けたのである。
新城発見リスト
1、丹生城
H,P https://blog.goo.ne.jp/idealblog2/e/ba0a1575fcff31150c25387a2f0bd507
2、大阿坂城 報道未発表
H,P https://blog.goo.ne.jp/idealblog2/e/6b7d4c56a6961a9cb7c2a074dd0c4c09
3、庄城 報道未発表
松阪山城会例会訪城 2018年4月26日 13名
H,P https://blog.goo.ne.jp/idealblog2/e/667ebd2e1b827c2ec78602270501dfba
4、御麻生薗城 報道未発表
H,P https://blog.goo.ne.jp/idealblog2/e/7d2067822ec2b8b68fb2c415a6c605c8
城名 |
柚井城 |
読み |
ゆいじょう |
住所 |
桑名市多度町柚井 |
廃城年 |
1571年(元亀2) |
築城者 |
梶田左馬亮 |
形式 |
山城 |
遺構 |
曲輪(10)、土塁 |
規模 |
130m×190m |
城主 |
梶田左馬亮 - 梶田刑部丞 - 西松要人 |
標高 78m 比高 46m |
歴史 |
長島一向一揆に加勢し織田信長と戦ったが永禄年中に敗れた。 |
その後城主になった西松氏も1571年信長に敗れ廃城となった。 |
書籍 |
三重の中世城館 現地掲示板 |
現地 |
独立丘 町内で最大規模 山頂から南へ扇形に多くの曲輪(全部で10)を配している。 築城時から多人数を意識して、縄張をしている曲輪の数などの状況である。背景に一向一揆の規模の大きさが伺われる。 |
一部(南の入り口辺り)は昭和20年に軍部によって改変されている。 |
地図 |
2月6日に白米城で揚げたのろしは、5Km離れた白山城に届き、更に2Km離れた大河内城学校の生徒たちに届いた。実験の目的はかなったので成功と言っていい。
ただ、細部では反省点もあり来年に持ち越しになる。4回目になるとギャラリーも増えてきた。恥ずかしいことはやってられないぞー!である。
野中城再訪城
☝ 現在、鉄塔が建つピークの西側に竪堀があるのを確認した。北側の尾根にある堀切は以前から認
知されているが、こちらの竪堀はは先輩諸氏の縄張図に記されていない。
☟ 同時にその堀切の先に、少し線がずれるが竪堀も認められ、これも先輩諸氏の縄張図にない。
写真には収められなかったが同ピークの南側のブッシュの中には竪堀と堀切がそれぞれ一つずつある
ことを同行者が確認している。
野中城の兄弟とも思える二こぶのピークは両方とも砦、或は城として機能していたことが裏付けられ
た。鉄塔工事により山頂は改変されて当時の面影もない。いかにも残念である。はたして、鉄塔が建て
られる前の調査資料はこの世にあるのだろうか?
一つ疑問が残る。先輩諸氏がこれほど見やすい遺構をなぜ縄張図に記さなかったのだろうか、という
点である。現在、ブッシュに覆われている南側は当時もそうだったかもしれない。しかし、西側の遺構
は木立の中なので以前ブッシュとは考えにくい。
ピークの周辺を歩けば見つかる遺構である。
何れにしても収穫のある再訪城であった。
☟ 帰りがけには谷に水場と思われる場所を確認した。
野中城は別名「野中浅間砦」といわれるが、なかなかの遺構である。