三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

木造城

2014-05-16 16:49:00 | 古城巡り

木造城

こつくりじょう

住所;三重県津市木造町

古城

   城主;初代=北畠顕俊で木造を氏とする

   築城時期;1366年(正平21年)

新城

   城主;七代=木造俊茂

   移転時期;1528年(享禄元年)

   廃城;1584年(天正12年)

遺構;土塁(興正院跡)、本丸跡の土盛

経緯;1、 北畠顕能の三男顕俊が1366年(正平21年)に築城し初代城主となり

      木造を氏とした。以降連綿と160有余年の年月が流れる。

    2、 1528年(享禄元年)七代城主・木造俊茂が堅固な地盤を求めて北に

      300m城を移設。 1584年(天正12年)城を明け渡すまで56年間現在 

      石碑が建つ所に木造城があった。

    3、 北畠具教の弟・具政は木造に養子としてきた。北畠家の馬揃えに際し

      て馬番が①田丸②大河内③坂内の後ということに不満を持っていた。 

      織田信長伊勢侵攻の時、信長に通じた滝川雄利や木造の長臣・柘植三

      郎左衛門尉らにそそのかされ具政は織田方につく。

       北畠具教は激怒して柘植三郎の妻子を雲出川で殺したうえ串に刺して

      磔にする。 1569年(永禄12年)5月12日北畠具教は木造城を攻撃する。

      木造軍に津田忠寛の応援がありまた湿地の陣地などに苦戦し北畠軍は

      撤退する。

       同年8月、織田信長は8万の兵を率いて岐阜を出陣し20日に桑名に着く。

      同23日に信長は木造城に入って軍議を行う。2日後の26日早朝には木造

      城を出て南に向かう。

感想;  木造城の絵図を見た記憶がある。湿地帯の中の平城の印象が強く残って

     いる。 現在の現地を見るとよく整備されその印象は浮かんでこないが

     北の高台からは一段下がって水田となっていることからやっと想像をさせ

     てくれる。遺構はほとんどないが歴史的には重要な城である。現在ある土塁 

     だけはどうか末永く残って欲しい。  

地図;https://mapsengine.google.com/map/edit?mid=zMB0lt7eZPVw.kfXn7gkwAAkU

 


勢陽五鈴遺響とは

2014-05-06 10:28:02 | コトバンク

勢陽五鈴遺響(せいようごれいいきょう)

出典: フリー百科事典・ウィキペディア

江戸時代末期の1833年(天保4年)に完成した伊勢国(現・三重県)に関する地誌。

概要;伊勢国山田古市(現・三重県伊勢市古市町)の郷土史家である安岡親毅(1758年 - 1828年)が編纂、没後は妻である安岡八千女が引き継ぎ補修し、門人である増井惟休、中西正稻等の校正を経て完成する。寄稿から完成までに約50年を費やした。

 

 江戸時代以前の伊勢国各地の歴史・地理が詳細に記されており、三重県内の郷土資料に数多く引用されている。