城名 |
笠木館 |
読み |
かさぎやかた |
別名 |
笠木御所 |
○現地の案内板の記述より |
笠木はかつての神宮祭主領であったが寛政年間(1460頃)より、阪内氏の知行地となり阪内氏の居館跡として断定されている。(神宮文庫) |
永禄12年(1569)織田信長と北畠勢が大河内城で攻防を展開したが、信長の次男信雄を北畠家の養子として和議を結んだ。そこで具教・具房父子はこの笠木御所に退城したと「信長公記」に記されている。 |
天正4年(1576)11月北畠具教は三瀬の館にて謀殺され、当時の笠木城主阪内兵庫具義(国司の婿)も田丸城で殴殺された。 |
○もう一つ案内板「中世の回土居群」より |
この場所は中村ノ内と言い古くから中屋敷と呼ばれ明治初期まで八幡祠があった。また近くの字名に町屋、市門、伊賀人、駒ノ口などがある。 |
標高は40mながら二重、三重の土塁に囲まれ迷路のようになった郭が大小合わせて37、井戸が24ほど点在していた。 |
中世の回土居群としては県下でも数少ない砦跡である。平時にはここを居住として、有事には1km離れた矢田城を立て籠もりの砦としていたと考えられる。 |
以上、原文のまま |
住所 |
多気町笠木 |
形式 |
平城 |
遺構 |
曲輪、土塁、空堀、井戸 |
規模 |
480×350m 兵500人 |
城主 |
笠木氏(坂内兵庫具義) |
一族 |
北畠家 - 坂内一族 - 笠木氏 |
標高 40m 比高 7m |
書籍 |
三重の中世城館 三重の山城ベスト50を歩く |
環境 |
南に走る外城田川に沿う低い河岸段丘上で、南は水田が広がる。 |
現地 |
中央の一段高い台状地周辺は、周辺の曲輪群より防御が厳重になっている。 |
丘陵の東の隅には防御専用と思われる曲輪が2ヶ所ある。こちらは通常の山城の雰囲気で、地元ではのろし台と呼ばれている。 |
倒れた竹が折り重なった上に、井戸跡がたくさんあるので危険である。単独の訪城は十分気を付けてほしい。 |
感想 |
ここが中世の一つの街を現しているという点で貴重な遺産である。 |
中勢の各地に北畠家の御所と呼ばれる場所が複数あるが、それらも地勢や人数による規模などの違いがあったとしても、このような街が営まれていたと想像される。 |
地図 |
城名 |
牧城 |
住所 |
多気町牧/鍬形 |
築城者 |
岡惟家(これいえ) |
形式 |
山城 |
遺構 |
曲輪、竪堀 |
城主 |
岡惟家 - 小四郎(注1) |
標高 96m 比高 47m |
歴史 |
北畠家家臣 |
経緯 |
1576年か1577年に北畠教具と同時期に死去。 |
書籍 |
○勢陽五鈴遺響 |
「同所ニアリ岡小四郎住セリ北畠家臣ナリ」(p209) |
○三重の中世城館 ○三重県の城 |
「多気郡多気町字前街道 中牧集落の南東250mの山頂にあったとされる城で、北畠氏の被官岡氏の居城という」 |
○多気町史 |
「鍋倉峠南側に標高100mの山があり、その山頂に城跡がある。「伊勢名勝志」には北畠氏の家臣岡惟家(これいえ)此ニ居リ近郷ヲ所管ス。小四郎ナルモノニ至リ、天正中北畠具教三瀬ニ殺セラレル時之ニ死ス。其の子孫今本村ニ存ス」 |
また、「山頂には狭い平坦地があるだけである。峠の西入口麓付近を扇の館といい、今も小四郎を子孫とする岡氏宅がある。多分この辺りに居館があったのだろう」とある。 |
環境 |
櫛田川が北に大きく湾曲する原因の尾根が牧の地を南北に横たわる。その尾根の真ん中あたりを伊勢本街道が東西に突っ切っている。まるで自然の関所ようだ。 |
この鍋倉峠の南側の丘頂に城跡はあるが不整形な削平地と北側にある竪堀だけで完成度は低い。 |
現地 |
浅間山が祀られていたようだが今は石仏も峠の際に降りてきて山頂へ人の訪れる様子はないようだ。 |
この尾根からは東も西も視界は効くので見張台にはもってこいの所である。峠の北側の尾根には削平地や周辺の高まり等、見張台的な様子が伺える。 |
考察 |
扇方の地形は地図上で今でも見られる。 |
注1 |
飯高の谷野城の城主が「岡小四郎」と云われるが両者の関係性を解いたものはない。 |
地図 |
度会町の城 特集
一之瀬城 |
度会町脇出城山 独立山頂 |
愛洲氏が築城。一之瀬御所。 |
青木山城・屋敷跡 |
度会町脇出 独立山頂 |
丘頂に4条の堀切、削平地がある。 |
矢村城 |
度会町上久具 丘陵平城 |
丘陵にあった。(旧山川城) |
麻加江城 |
度会町麻加江 丘陵平城 |
丘陵にあった。 |
長原城 |
度会町長原 尾根先端 |
大崎氏の詰城。立岡城と似るところあり。 |
南鮠川城 |
度会町富津 河岸段丘縁 |
丘頂にあった。 |
立岡城 |
度会町立岡 尾根先端 |
丘頂にあった。 |
牧戸城 |
度会町牧戸 河岸段丘縁 |
北畠家家臣。 |
山崎館 |
度会町立花 河岸段丘縁 |
台地にあった。 |
殿山城 |
度会町長原 尾根先端 |
丘頂にあった。 |
蓮華寺城 |
度会町棚橋 独立山頂 |
蓮華寺の城として山頂に2か所ある。 |
城山城 |
度会町棚橋 河岸段丘縁 |
台地にあった。(別名;棚橋城) |
制覇 12
度会町の城 所在地
城名 |
城山城 |
読み |
しろやまじょう |
別名 |
棚橋城 |
住所 |
度会町棚橋 |
形式 |
丘城 |
遺構 |
無し(堀切痕、切岸跡らしきものは散見される) |
規模 |
不明 |
城主 |
福井若狭守か |
標高 31m 比高 川面より15m |
経緯 |
”以前から城山と呼ばれていた場所”と三重の中世城館に記されている。 |
書籍 |
三重の中世城館 渡会史 |
渡会史の記述を以下に記す。 |
棚橋の集落のほぼ西端に位置する段丘上にあり、下方は宮川の流れがかつては大渦を巻き、曲流するところであった。 |
小高い崖をなし、北西部には「城の小殿さん」と呼ばれる小祠がある。 |
東側は「城の阪」と呼ばれ堀切となっている。 |
現在その大部分は町営住宅の「城山団地」となっている。 |
築城などについての伝承や文献はないが南北朝の動乱時代に北朝方の拠点であった蓮花寺にかかわるものであろう。 |
環境 |
北側の山が宮川に迫り出すように人や川の可動範囲を狭めている場所で、恐らく古くは通行だけでも難儀な場所だったと想像される。また、その山で宮川が大きく湾曲し、船溜まり的な場所をつくっているところでもある。 |
現地 |
宮川本流と北からの支流の合流点で、棚橋の河岸段丘台地の突端となる所に城はある。そこを県道が城跡を分断しているように見える。 |
北西300~400mの山腹、山頂には蓮華寺城がある。渡会史が記す「南北朝の動乱時代に北朝方の拠点であった蓮花寺にかかわるもの」の可能性はあると思える。この辺一帯を法楽寺と言ったらしいがその一角を占めていたのではないだろうか。 |
考察 |
この城が北朝側か南朝側なのか? |
感想 |
地形や周辺のロケーション、残っているわずかな歴史情報から、重要な地点であることは間違いないだろうけど、跡形の無い城跡の典型だ。残念!!!!! |
地図 |
城名 |
南鮠川城 |
読み |
みなみはいかわじょう |
住所 |
度会郡度会町鮠川662/富津 |
形式 |
丘城 |
遺構 |
土塁の一部 |
規模 |
内城田村史によると当時、東西30間、南北20間とあり、54×36m位ほ平地があったようだ。 |
城主 |
不明 |
標高 29m 川面からの比高 10m |
書籍 |
三重の中世城館 |
環境 |
宮川に面する河岸段丘の断崖にある。支流鮠川(はいかわ)が東側の急崖を創り出したようだ。まるで岬の突端の様相を現している。 |
「内城田村誌」によると「南鮠川の城、字浦の上なる渡船場の断崖上。東西30間。南北20間の平地にあり。 |
郷人これを城(じょう)と称す。蓋し(注1)砦跡ならん」とある。 |
昭和47年2月、城跡を縦断するように鮠川大橋が完成した。いまは土塁状のものがわずか数メートル残っている。 |
現地 |
宮川右岸の河岸段丘の縁に城はある。城から宮川へは行き来ができる。船着き場の様子が垣間みられる。 |
ここで戦いをうんぬんという気配ではない。現地に来てそれが分かった。現在は土塁の片割れが残るのみであるがロケーションは当時の雰囲気を残していると思える。 |
考察 |
山城ではなく、居館でもない。渡船場で物資や通行人を抑える関所という位置付けが一番近いと思われる。 |
ここより3km下流の宮川左岸に牧戸城があるが、河岸段丘の縁に造られる城砦の2例となる。 |
感想 |
鮠川大橋記念碑に長年の渡し舟、、、という行があるように結構川幅のある宮川のこの場所では渡し舟の運航は大変であったと想像できる。 |
宮川を渡る関料をとったり人や物の検査をしたり舟自体を守る役目があったりという気がする。 |
注1 |
蓋し:(けだし) 物事を確信をもって推定する意を表す。まさしく。たしかに。思うに。 |
地図 |
城名 |
牧戸城 |
読み |
まきどじょう |
住所 |
度会町牧戸101 |
築城者 |
牧戸氏か |
形式 |
平城 |
遺構 |
無し |
規模 |
不明 |
城主 |
牧戸友之助 牧戸与五郎 |
一族 |
北畠氏家臣 |
標高 10m |
書籍 |
渡会史 三重の中世城館 |
渡会史によると、「勢陽五鈴遺響」に「牧戸砦跡。同処にあり 国司北畠家のきか牧戸氏住まいせり」とあり、内城田村誌には「牧戸砦址・本区に在りと、今其跡を詳にせず。 |
また三重国盗り物語には牧戸友之助の名が見える。他書にも牧戸与五郎の記述もある。そのことから土豪、牧戸氏の館か砦ほどのものがあったのだろう。いまその位置を明確にすることはむずかしく台地の先端が宮川に突出する八柱神社跡ではなかろうか。また集落の西端ともいわれる、とある。 |
環境 |
宮川に突き出すような河岸段丘の縁に城跡はある。敵に対する防御というよりは、宮川の抑えと言った方が合点がいくロケーションだ。 |
現地 |
上流側、入り口より奥の方に浅い溝が方形の区画を示しているようだ。 |
考察 |
ここまで遺構が無いと断定はできない。 |
感想 |
南鮠(はや)川城が3km上流の宮川右岸にへばり付く様にあるが、それと対照的に牧戸城は左岸にあり、対を成しているようにも見える。 |
地図 |
城名 |
麻加江城 |
読み |
まかえじょう |
住所 |
度会町麻加江奥屋敷 |
築城年 |
室町後期か |
形式 |
丘城 |
遺構 |
曲輪、土塁、空堀、虎口、土橋、虎口 |
規模 |
主郭 50×50m |
城主 |
不明 |
標高 55m 比高 23m |
歴史背景 |
書籍*2に「南北朝期、度会町一帯では両朝の抗争が激しく、南朝が北朝側の法楽寺(蓮花寺・度会町棚橋)を落して背後に蓮華寺城を築くと、今度はこれを北朝が奪回するというような状況であった」とある。 |
法楽寺という呼び方は寺の名称ではなく、蓮華寺がある辺り、度会町棚橋辺り一帯の地区をいっている。 |
書籍 |
*1三重の中世城館 *2三重の山城ベスト50を歩く |
環境 |
宮川右岸の度会町に麻加江集落があり、北のはずれにある丘陵地端に城はある。 |
現地 |
ほぼ東に向いた緩傾斜を溝と土塁で囲んだ三角形の曲輪が中心となっているようだ。 |
南200mの所には”郷士館”と呼ばれた館跡があったというが畑地への開発で今は見ることができない。 |
考察 |
現状の主郭から周辺にある他の曲輪と、今は見られない”郷士館”と呼ばれた部分の全体を捉えて、ここは居館の集合体と見られる。 |
感想 |
書籍*2でいう法楽寺辺りとは5~6kmの距離があり、直接関係の可能性は薄くなると思われる。 |
北背後の標高146mの山頂に詰城があって、その根小屋的居館とした方が分かり易い。 |
標高146mの山頂を攻めてみるべきか。 |
地図 |
城名 |
蓮華寺城 |
住所 |
度会町棚橋 |
築城年 築城者 城主 不明 |
形式 |
山城(上の城と下の城) |
遺構 |
曲輪、堀切 |
規模 |
上の城 東西10m×南北80m |
下の城 東西30m×南北25m |
標高 160m 比高 90m (上の城) |
書籍 未確認 |
環境 |
宮川に突き出た丘陵の頂にあり眼下の宮川や街道を監視するには絶好の場所である。 |
西数百メートルの所の宮川縁には牧戸城があったとされる。又眼下の棚橋の西入口辺りには棚橋城があり、東西で蓮華寺城の守りを固めていた様子も伺える。 |
現地 |
山全体がシダに覆われており遺構を確認しにくい。猪に出くわす可能性あり。 |
考察 |
蓮華寺が力を持ち外敵から身を守るために城を必要とした時代があった。戦国時代以前の城かも知れない。 |
感想 |
遺構は狭い曲輪と堀切で構成されている。古いタイプの様子である。 |
二つも持たなければならなかったことが興味を引く。寺の僧の上下階層から必然的にできたものかも知れない。 |
堀切のいくつかは見応えがある。 |
地図 |
新城名 |
矢村城 |
旧城名 |
山川城 |
度会町は”従来の所在地「下久具」の訂正と同時に城名を矢村城とする”としている。 |
住所 |
度会町上久具 |
形式 |
丘城 |
遺構 |
曲輪、空堀、土塁、虎口、井戸跡 |
規模 |
40×60m |
城主 |
刀根氏か |
標高 40m 比高 6m |
経緯 |
三重の中世城館によると「刀根幸太郎氏によれば、その祖先がここに落ちのびてきたといい、同家には天正8年(1580)の「佑山信士」の位牌がある。付近を開墾したときに刀片などが出土し、岩風呂もあったと古老は伝えている」とある。 |
書籍 |
三重の中世城館 |
環境 |
北に向かう傾斜角3度くらいの緩斜面にある。東側に小川が流れその縁は急崖となる。 |
現地 |
集落とは地続きの様相で天然の要害ではない居館を想像させる周辺のロケーションだ。 |
土塁、堀は高さ、深さ、容量があり見応えがある。南側(山側)の堀や土塁は敵からの防御はもとより、山からの水、落石、害獣なども防いでいるようだ。虎口が明瞭なことから一番北側が主郭と思われる。 |
感想 |
古老の話し「ここに落ちのびてきた」から、何らかの敗者かもしれない人の居館ではと想像した。 |
地図 |
城名 |
殿山城 |
読み |
とのやまじょう |
住所 |
度会町長原 |
城主 |
山崎氏か |
形式 |
山城 |
遺構 |
削平地 |
標高 103m 比高 65m |
書籍 『度会史』 |
「中川村誌に中川神社の東に当り字田間そばの山上に広さ二町歩程の坦夷(注1)あり。土俗(注2)之を殿山と呼ぶも玆に住みし郷士を明らかにせずとある。 |
山麓に割合浅い空堀状のものが、130mほど続く。この溝より山側15~20m離れて、高さ1.5mの石積みがほぼ東西に50m続く。さらに、これより山側へ8~10m離れた位置に高さ3mの石垣が45mほど東西に延びている。この石積みと石垣の間が長方形の削平地となっている。ここより北方に宮川を見降ろすことができる。」 |
注1 |
たんい【坦夷】( 名 ・形動 ) [文] ナリ 土地などが平らである・こと(さま)。平坦。 「 -なる大道を択ばば危険少ふして/経国美談 竜渓」 |
注2 |
どぞく【土俗】民俗の旧称。 「 -と伝説」 |
現地 |
上記を頼りに現地に向かう。 |
山頂の削平地には高さ1m程の鳥居が数個列をなしている。浅間神社のようだ。 |
削平地が下にも見える。これは城跡だと気分は一気に上昇する。早速大きさを歩数で計り図面を書く。作業を進めるほどに確信に変わっていく。これが殿山城だ。 |
しかし、『度会史』で紹介のあった様子とは全く異なるのが疑問だ。石積みや石垣を探して麓を半周する。らしきところは出てこない。念のためもう一方の頂上を目指すが、こちらは人の手が入った様子は皆無である。山を下り反対側の麓を回る。 |
土塁は所々で切断されてはいるものの麓を巡っている。これは昔の灌漑用水路ではなかろうか。所々切れているのは水を落とすととこであったり水を溜めるところであったり山崩れで流されたところだ。 |
山から離れて道に出ようとすると老人が草刈りを始めようとするところであった。声をかけると殿山城については全く知らないという。浅間さんは承知であった。 |
近くで作業をしていた老人が一人、二人と近づいてくる。「やっと帰ってきなしたか」「何をされとるんですか」「なかなか姿が見えんので」 |
どうやらバイクが止まっているので心配をかけていたようだ。またしても経緯を話すと「殿山城はしらんなー」とさっきの老人と同じ回答であった。 |
観光情報として「獅子鼻」という景勝地が近くにあるらしい。麻加江の奥とかいう。 |
住民からよい話は聞けなかったが、地形の観察からここが殿山城だと比定することにした。2015.2.3初訪 |
感想 |
北150mの平地(現在水田)に山崎館があったとされている。距離感と位置関係から居館と詰城の関係にあることが十分に想像される。 |
それにしても 『度会史』 の記述とかなりの相違点があることが気がかりだ。 |
地図 |