因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

劇団ミチュウ『リア王』

2010-07-10 | 舞台

 第17回BeSeTo演劇祭 公式サイトはこちら 新国立劇場中劇場
 ウィリアム・シェイクスピア原作 イ・ビョンフン演出 11日で終了
 ミチュウ(美醜)は、1986年演出家ソン・ジンチェクによって創立された韓国の代表的な劇団とのこと。韓国の劇団じたい、自分は初見であり、日本語、英語以外のことばでシェイクスピアをみるのもこれが初めてになる。
 舞台中央に置かれた屏風のようなものが中央から静かに開くと、もの悲しい笛の音を奏でる人物(のちに道化とわかる)がいて、『リア王』の開幕である。舞台三面に簾のようなものが掛けられており、俳優の入退場が客席から見える作りになっている。下手にはバンドとシンガ―が位置する生演奏付き。

 シェイクスピアの作品のなかで『リア王』は観劇回数が少ない。あまりに単純な表現になるが、何度みても、どの劇団、どの演出家の舞台をみても「ひどい話だなぁ」という感情がどうしても支配して、作品や俳優について深く考えることを阻むからなのだ。登場人物の誰かに視点を合わせることも難しく、これでもかと繰り広げられる惨劇にほとほと疲れ果ててしまうのである。

 実を言うと休憩なしの2時間20分のあいだ、何度か時計をみては「あとどれくらいで終わりだ」と確かめたけれども、終演後カーテンコールから帰路につくとき、これまでみた『リア王』では味わったことのない温かな気持ちであった。これほど悲惨な内容であるにも関わらず、この爽快な気分はどこから来るのだろう?

『リア王』に限ったことではないが、シェイクスピアの作品には実にさまざまな性格、背景、役割を持った人物が登場して、「捨て役」がない。たとえ出番がどれほど少なく台詞も短かろうと、その人物がその場に存在することが必要であり、かといって演技の型が決まっているわけではなく、俳優の個性や演出の方針によって多様な演じ方ができる。この役をあの俳優さんがきっちりと演じてくれたおかげで、舞台に予想外の奥行きが生まれ、新鮮な手ごたえを得られた経験がこれまで何度もあった。主役でなくても構わない、あの俳優さんにこの役の、この台詞を言ってもらえたら・・・と想像する何という楽しさ。今回の上演ははじめてみる俳優さんばかり、予備知識がない不安もあったが、それがいつのまにか先入観なしに味わえる楽しみに変化していったのは、演出家の熱意であり、それに応えた俳優の力強さのためだろう。

 残念だったのは舞台両サイドについた字幕のタイミングが悪かったことである。何度かみているし戯曲も読んでいる作品なので一応流れは見失わずに済んだものの、俳優の演技に対して遅かったり逆に早かったりとちぐはぐだったのに驚いた。興ざめなことを書いてしまったけれども、字幕のあれこれを忘れるくらい充実した夜になったことは改めて記しておく。これからみる『リア王』のために、今夜のミチュウの『リア王』がもっと大切なものとして実感できる日がくるだろう。

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